08-ブラジャー/男と女の胸算用 (4)

 

[11] 1960年代、ウィメンズ・リブの女性たちは「束縛の象徴」であったブラを胸から外し、公共の場で火をつけて燃やした(ブラが煙を上げて燃えているのがわかるだろうか?)。あるいは、焚き火の中に放り込んだ。

ヒップな女たちはブラを外す!

 そんなブラジャーに強烈な「NO!」を突きつけたのがアメリカのウィメンズ・リブの女性たちであった。

 女の胸からブラジャーを外せ!

 1960年代、先鋭的なリブの女性たちは男性の目の前でブラを外し、胸をはだけてこういった。
 「でも、この胸はあんたのものじゃないよ!」。
 マスコミは「ノー・ブラ運動」とか「ピンクの気炎」と揶揄したが、それは女から男へのヒップな異議申し立てだった。

 第二次大戦後には、世界中で大きな文化と価値観の衝突があった。戦後のベビーブーマー世代が中心となって、地球的な規模で「カウンターカルチャー(旧体制に抗する対抗文化)」を続々と開花させたのである。

 ウイメンズ・リブの女性たちは、旧来の「婦人運動」に革命を起こして、リブとフェミニズムの大きな思潮と行動を誕生させたのである。
 彼女たちは「旧婦人運動家」たちが目を背けて直視しなかった「女のセックスとセクシュアリティ(性の社会性・文化性)の解放」を大きなテーマのひとつとしていた。

 女性の胴体を締め上げたコルセットは、近代合理主義者(モダニスト)の目から見れば、女性を工場労働者として働かせるには不合理きわまりない肌着だった。
 かくて、ブラジャーが誕生した。

 しかし、そのブラジャーも、リブやフェミニズムの視点から見れば、女性の身体性と精神性──カラダとココロ──を束縛する前世紀の遺物以外の何ものでもなかったわけである。

 日本のウーマン・リブは、1960年代末~70年代初頭に台頭した。それは、アメリカのウィメンズ・リブの影響と、1960年代の全共闘運動の解体の中から生まれた新しいあり方の女性解放運動だった。

 当時の情況を、作家の林郁はこう書いている。

  〈71年春、リブのビラにピンと感ずるものがあり、その夏、ひとりでリブ合宿に参加した〉〈わたしがじかに会った女たちは、幼さはあってもマ スコミが嘲笑するような「ブス過激派、汚れた女」ではなかった〉〈最後の夜、丘の上の焚き火のまわりで女たちは踊った。ブラジャーを火に投げ込み、裸に なって踊る。躍る。丘の下にはたくさんのパトカーが並び、農民の支度をした私服が坂を登ってくる 〉……。* e

  ブラひとつで、それはもう大騒ぎだったのである。日本の男性たちの女性観は、20世紀も半ばを過ぎたというのにいまだ19世紀のヴィクトリア ン。女性がブラジャーを外すことが、男性社会にとっては、国家権力を動員して阻止しなければならないほどの一大事だったのである。

 しかし、ノー・ブラの思潮は、風に吹かれて若者たちの溜まり場へと流れてくる。

 1970年代、日本におけるカウンター・カルチャーの拠点だったライブハウス「ぐゎらん堂」(武蔵野市吉祥寺)には、ブラを外した女子高生たちが続々とやってきた 。ピンクのタンクトップにブルージーンズ、素肌の肩に革ジャンを羽織って。

  そんな彼女たちのひとりは、自分がリクエストしたジャニス・ジョプリンの『CHEAP THRILLS』が最高潮に達すると身をよじって立ち上がり、着ていたセーターをするすると脱いで踊りはじめる。薄暗い店内のタングステン灯に眩しく揺れ るのはノー・ブラの双つの白い乳房──。
 1970年代、吉祥寺の夜はそうして更けていくのであった。

女性ロック・スターに見る胸元の意味

 [13]は、そのジャニス・ジョプリン(1943~70=不世出のブルーズシンガー)のアルバムだが、彼女たち──1960年代後半からのロックスターの胸元にはポップな女性史の変遷が凝縮されている。

 ジャニスの胸元に注目していただきたい。時は1967年、彼女のコットンドレスの下はもちろんノー・ブラである。ドレスの下にじかにひそむ双つの乳首は、隠されるのではなくむしろ意図的に強調されている。

 それから、10年……。

  [13]は、1976年のダイアナ・ロスである。
 70年代後半、リブの思想と行動は、より普遍化したフェミニズムの運動となって国際社会に定着していく。

 1975年の「国際婦人年」を契機として、翌年から「国連婦人の10年」がスタートし、ジェンダー・フリー社会のための法整備が各国で開始された。
 そんな動きをよそに「なにも着けない素肌の胸=ノー・ブラ」は、異議申し立てとしてではなく、おしゃれなファッションとして流行していく。

 『どこへ行くのかわかってるの?(Do You Know Where You're Going To=日本ではネスカフェのCM曲として有名になった)』とスウィングしたダイアナ・ロスは、ノーブラの胸元を最も優雅に、最もファッショナブルに見せる ことに成功した女性の一人だろう。

 さらに、10年……。

 [14]は、1987年、マドンナが日本初公演のステージで見せた姿である。

 1980年代後半、日本はバブル経済の時代を迎えていた。
 時代の表層は金ぴか、金尽(かねづく)、金あまりのルンルン気分で、多くの日本人がおいしい生活を謳歌していたが、ノー・ブラであることの革命 的理念は完全に風化し、六本木のディスコのお立ち台で踊るボディコン・ギャルたちがたとえノー・ブラであったとしても、パトカーの群れや農民に変装した私 服刑事たちはついに現れなかったのである。

 そんな80年代、アメリカのロック・シーンに鮮やかにデビューしたのがマドンナだった。

 『ねえ、まるで処女みたい( Like A Virgin)』と、この姿で、1984年の全米ヒットチャート第1位を連続6週間突っ走り、ブラジャーの意味を逆転させたのがマドンナである。「アン ダーウェア=隠されるべき下着」として存在してきたブラジャー、コルセット、ガーターを、ステージ衣裳として身に着けて大観衆の前にディスプレイしたの だ。

 下着の意味は、あたかもモノサシ袋がウチ側からソト側へひっくり返されたように反転され、コルセット姿でステージ狭しと歌い踊るその姿は男性社会の既成価値に対する新たな叛逆の記号となった。

[12]1970年代、ヒップなカウンター・カルチャーが多様に誕生した。それは、産業革命以後の近代合理主義に対する異議申し立てであり、あるがまま に、自由に暮らしたいという自然回帰への主張でもあった。身体と精神を拘束する旧世代の価値観は、ブラとともに次々と脱ぎ捨てられていった。
[13] 「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」の店内を描いた油絵。フォーク、ロック、ブルース、絵画、漫画、詩、映画──日本における1970年代のカウンター・カルチャーの拠点のひとつとなったライブハウスである。絵:神野次郎
[14] 1967年に開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルのライブ盤『チープ・スリル』のジャケットとその部分である。ジャニス・ジョプリンのこの代表作は、全米ヒット・チャート8週連続第1位という大ヒットを記録した。
[15] 1977年に撮影されたダイアナ・ロスのブロマイド。ゆったりとしたシャツの胸元に、やはり、ブラは存在しない。
[16] 1987年、日本での初公演のステージに姿を見せたマドンナ・チコネは、大観衆の前で、黒いガーター付きコルセット(ビスチェ=bustier)を着けて踊った。