【ジュラ紀の道具たち】 ジュラルミン製転用品を中心に (Page 6)

● 沖縄の場合/1945~50年代 

 敗戦直後、沖縄の人々は、衣食住の生活をゼロからたて直さなければならなかった。なにはともあれ、生活道具をつくらなくっちゃ! と思ったがその材料がなかった。目につくのは、一面の焼け野原に放置された日本軍の置き土産だけだった。

 たとえば、読谷村(よみたんそん)では、旧日本陸軍北飛行場(現・読谷補助飛行場)に零戦をはじめとする破壊された航空機が山積みにされていた。座喜味(ざきみ)の東川(トーガー)には戦時廃棄物の捨て場があり、北飛行場や中飛行場(現・嘉手納飛行場)から運ばれたおびただしい軍用機の残骸が野ざらしになっていた。

 この捨てられた軍用機のジュラルミンを使って、多彩な道具類がつくられたのである。海辺の村のあちこちに小さなナービヤー(ナベの製造工場)が次々と誕生した。

 1946~49年、ナービヤーは沖縄における戦後第一の産業といわれるほど盛況を極めた。

 1940年代、ナービヤーの作業場。手にしているのはジュラルミン製下駄だ。台の上にナベが見える。

写真/『戦後沖縄写真集・ゼロからの時代』那覇出版社より

ジュラルミン製カブトナベ
ジュラルミン製洗面器
ジュラルミン製スリバチ
ジュラルミン製ヤカン(銀翼のヤカン)
ジュラルミン製炭火アイロン
ジュラルミン製小皿
ジュラルミン製今川焼きの焼き型
ジュラルミン製米軍の隊章(エムブレム)
ジュラルミン製灰皿

 1945年、沖縄の人々は、米軍による猛烈な艦砲射撃と空爆にさらされた後、一杯の水を飲むグラス(コップ)すら持たず、着の身着のままの姿で戦時難民収容所に収容された。彼らは、米兵が捨てたコカコーラの空きビンをカットしてグラスをつくった。

 中央がその「ビン底グラス」である。左は素材となった1945年製のコカコーラ・ボトル、胴体に「45」と刻印されている。

 この品はジュラルミン製ではないが、沖縄の戦後を象徴する代表的な【ジュラ紀の道具】である。

コカコーラのビン底グラス。左:1945年のビン底グラス。右:1990年、沖縄コカコーラ・ボトラーズが販売促進品として製造したビン底グラス

砲弾の薬莢製大型灰皿
左の灰皿の底(薬莢の原型をとどめている)
カンカラ三線(さんしん)
銃弾製ペンダント(コルト45ガバメント)
銃弾製ペンダント(三八式歩兵銃)
銃弾製ペンダント(南部一四式拳銃)
銃弾製栓抜き(1990年代の観光土産品)
HBT(軍服を転用したズボン)
銃弾製灰皿(1990年代の観光土産品)
灰皿(前の写真)の底部
2004年、沖縄県立芸術大学の学生たちがつくった「コカコーラのビン底グラス」。1945年の沖縄スピリッツは若い世代にも伝えられている





● 日本本土の場合/1945~50年代

1945年5月25日の空襲で、南北の屋根の大ドームが破壊された東京駅(米軍が撮影した航空写真と思われる)。
 米軍の空爆は本土でも猛威をふるった。1944(昭和19)~45(同20)年にかけて、「東京大空襲」を含め、日本全国で60ヵ所以上の都市が大規模な空爆を受けた。東京駅も被災し、屋根の大ドームが破壊されたが(上の写真 *)、修復しようにも鉄骨が手に入らなかった。そこで、代用品として構造材に使われたのがジュラルミンだった。国産軍用機の生産が中止され、倉庫に眠っていた航空機用ジュラルミンが転用されたのである。

* 詳細は  >>> http://www.studio-mira.com/Douguology/Yakeato.html

 その軍用機メーカーの刻印がくっきりと残されているのが、下の「零戦パン焼きナベ(ジュラルミン製クーゲンホフ・パン)」だ。フタにスリーダイアの三菱マーク──零戦の製造で名を馳せた三菱重工製である。敗戦直後とはいえ、世界的な大企業が闇屋並みにナベまで商っていたのには驚かされるが、人々はこのジュラルミン製ナベを使い、配給のトウモロコシ粉でパンを焼いて飢えをしのいでいたのである。

 また、「浦和のヤカン」は、製造時期と製造元が特定できる珍しい資料だ。フタの裏側に「贈・臨時國勢調査記念・昭和22年10月1日・浦和市役所」とある。1947年10月、当時の総理庁統計局が行った「臨時國勢調査」の際に、埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)が、調査の功労者たちに報酬代わりに現物支給した品だろう。

ジュラルミン製石鹸入れ ジュラルミン製湯釜 ジュラルミン製「浦和のヤカン」

ジュラルミン製コマ
ジュラルミン製クーゲンホフ・パン「零戦パン焼きナベ」(三菱重工製)写真資料/金沢市民俗文化財展示館所蔵。

写真/筆者