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「琉球新報」連載 Photo Gallery ご案内!!
[世界的平和遺産]クロニクル/戦世(いくさゆ)からの道具の証言
村瀬春樹&ゆみこ・ながい・むらせ
20世紀の戦争は、洋の東西を問わず、奇妙な「転用品」と「代用品」を大量に発生させた戦争だった。
また、「男は戦場・女は工場」という掛け声のもと、女性たちを軍需工場へと追い立てた時代でもあった。
「道具」と「女性」をキーワードに、20世紀の戦世(戦時)の隠された実態を考えていきたいと思う。
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| 連載 第1回~第10回 |
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戦時を語る動かぬ物証 連載1(2008年2月4日掲載)
ジュラルミン【転用品】・セトモノ【代用品】 / 沖縄 1945~'50年代/日本本土 1938~1945年
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1940年代後半・沖縄/軍用機のジュラルミンで製造されたナベ。
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1940(昭和15)年頃・愛知県/正月用につくられた鏡餅の代用品=陶器製鏡餅。全国のセトモノ屋で販売された。
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1945年・沖縄/撃墜されたゼロ戦の残骸(これらの機体の素材を転用して、ジュラルミン製のナベ、カマ、ヤカンがつくられた)。背景に瀬長島が見える。写真提供:月刊沖縄社「沖縄戦と住民」より」 |
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1933~42(昭和8~42)年・愛知県瀬戸市/陶製ストーブ工場(代用品製造工場)。窯(かま)で焼かれる前の陶土のストーブが並んでいる。写真提供:瀬戸市。 |
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2007年8月・東京/風船爆弾のレプリカ。和紙をコンニャク糊で貼り合わせた「爆撃機の代用品」だ。江戸東京博物館「風船爆弾と勤労動員展」にて。写真:筆者。 |
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生存するための象徴 連載2(2008年2月11日掲載)
コカ・コーラのびん底コップ / ■沖縄 1945年~50年代
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1945年・沖縄/「びん底コップ」。米軍の戦時捕虜収容所を中心に、米兵が捨てたコカ・コーラの空きびんをカットしてつくられた。写真は「びん底コップ」と素材となったボトル。いずれもコップの表面に「45」と刻まれており、1945年製のボトルが使われたことがわかる。写真:TabuteMurase
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2008年・神奈川県/ 私たちが愛用している琉球ガラス製品。「琉球ガラス」の素材には、いまでも「廃ビン(廃棄された空き瓶)」が原料とされる。いずれも奥原硝子製造所の製品。「琉球ガラス工芸」の第一人者=桃原正男氏の作品だ。中央のデキャンタが1969年に入手した「ヒョウタンびん(ワインのデキャンタ)」である。写真:筆者
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60年前の戦渦を伝える 連載3(2008年2月18日掲載)
若者たちの「戦時体験」 / ■沖縄 2004年
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沖縄県立芸術大学で開催された「道具学会フォーラム2004」のワークショップ。プロのガラス工芸作家=當真進氏(左)から「びん底コップ」づくりの指導を受ける学生たち。写真提供:道具学会・大沢匠氏。
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学生たちが完成させた「コカコーラのびん底コップ」。左端の1個は失敗作。手前にあるのが摩擦用の針金(鋼鉄製ワイヤー)だ。(TabuteMurase 撮影)
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打ち鳴らせ、性犯罪の警鐘 連載4(2008年3月3日掲載)
ガスボンベの半鐘 / ■1945年~現在
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沖縄本島に現存するガスボンベの半鐘。 沖縄市住吉「三叉路の半鐘」。
軍の塵捨て場で調達した鋼鉄製ガスボンベの底を切断してつくる。米兵が女性を求めて村へ侵入してくると、若い衆がこのガスボンベをガンガンと打ち鳴らして緊急事態を知らせた。女性たちは住居の戸口をぴしゃりと閉め、息を殺してこの半鐘の音を聞いたという。街の辻の「石敢當」の隣にひっそりと立っている。(Tabute Murase 撮影)
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沖縄市住吉「公民館の半鐘」。公民館の寄り合いを告げる合図としても使われたという。(Tabute Murase 撮影)
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那覇市繁多川「自治会の半鐘」。これらの半鐘の素材となったガスボンベはさまざまだが、糸満市の沖縄県平和祈念資料館の前庭には、日本軍の酸素魚雷とともに、軍用酸素ガスボンベが展示されている。(「琉球新報」撮影)
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絶体絶命のなかに歌あり 連載5(2008年3月17日掲載)
カンカラ三線とナベ・ウクレレ / ■沖縄 1945年~/リビア 1941年
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1945年~・沖縄、ハワイ、シベリア/カンカラ三線。人々は捕虜収容所で、島唄を歌うためにカンカラ三線をつくった。空き缶をボディに加工し、パラシュートの細紐などを絃として張ったという。ボディのカンカラは錆びて腐朽していたので、筆者が新しい缶を取り付けて復元した。(TabuteMurase 撮影)
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1941年・リビア/オーストラリア軍兵士がつくったトブルクのナベ・ウクレレ。だれかが「リリー・マルレーン」でも歌いたくなったのだろうか、第二次世界大戦の北アフリカ戦線、ナチス・ドイツの戦車隊に包囲された孤立無援の要塞のなかでナベ・ウクレレは誕生した。打ち合わせしたわけでもないのに、遠く離れた東アジアと北アフリカで発生した代用楽器の相似形である。ロンドンにある「IMPERIAL WAR MUSEUM(英国国立帝国戦争博物館)」収蔵。(図は、同博物館の図録を参考に筆者が作成)。
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土中に眠る危険な資源 連載6(2008年3月24日掲載)
薬莢の灰皿と銃弾ペンダント / ■沖縄 1944年~現在
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1945~50年代・沖縄/米軍が撃ち込んだ大型砲弾の薬莢を転用してつくった灰皿。直径14.3cm×高さ15.4cm。重量が約2.5Kgある。
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1945~50年代・沖縄/銃弾ペンダント。左から、それぞれ日本軍「南部14年式拳銃」、同「三八式歩兵銃」、米軍「コルト45・ガバメント拳銃」の弾丸が使われている。あの戦争は終わった。しかし、前触れもなくその「戦死」はやってくる。沖縄戦で投下された砲弾・爆弾20万トンのうちの5%=1トンが不発弾だと見込まれている。空から降ってきたとんでもない資源は、人びとの足元にいまも眠っている。(いずれも、Tabute Murase 撮影)
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死の道具を生の道具へ 連載7(2008年4月7日掲載)
ジュラルミン製日用品 / ■沖縄 1945~50年代
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軍用機のジュラルミンから「転用」された生活道具。左上から右下へ、ナベ、ヤカン、スリバチ、まんじゅうの焼き型、洗面器、炭火アイロン。ほかにも、カマ、カマド、飯ワン、皿──ありとあらゆる日用品がジュラルミンで「代用」された。
ナベ、カマという道具──最初は土器からはじまったが──は、人類の最も偉大な発明品の一つである。それは食生活の劇的な革命だった。
ナベ、カマ誕生以前、人びとは生で食べられるごく限られた食材しか口にできなかった。しかし、煮炊きできる道具を手にしたことによって、人類は生命を維持し、種を繁殖させるために必要な食糧の選択肢を、一気に広げることができたのである。あの苛酷な戦禍のなかで、沖縄の人びとは、戦闘機、爆撃機という「死の道具」を、生きつづけるためのナベ、カマという「生の道具」へと見事に転換したのである。(Tabute Murase 撮影)
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ナービヤー(ナベ製造工場)の作業場。手にしているのはジュラルミン製下駄、台の上にナベが見える。(那覇出版社『戦後沖縄写真集/ゼロからの時代』より)
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露店に輝く銀色のナベ 連載8(2008年4月14日掲載)
ジュラルミン製日用品 / ■日本本土 1945年~50年代
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1945年、敗戦直後の東京。焼け残ったのはコンクリート製家屋の躯体と煙突、そして鋼鉄製の金庫だった。瓦礫の街を、大八車に薪(まき)の束と炭俵(すみだわら)を積んだ男たちが行く。近郊の農村から市中のヤミ市へ燃料を売りに来たものと思われる。(撮影者不詳)
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日本本土にも軍用機のジュラルミンを「転用」した日用品が大量に発生し、いち早くヤミ市で販売された。左上から右下へ、パン焼きナベ、燗付け器、湯ガマ、石鹸入れ、コマ2個、ヤカン。下段右端のヤカンはヤミ市の品ではない。フタの裏側に「贈・臨時國勢調査記念・昭和22年10月1日・浦和市役所」とある。当時行われた国勢調査の際に、役所が調査の協力者たちの報酬代わりに現物支給した品だろう。(Tabute Murase & 筆者撮影)
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軍需財閥、ナベをつくる 連載9(2008年4月21日掲載)
ゼロ戦のパン焼き器 / ■日本本土 1945年~50年代
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1945年5月25日の空襲で破壊された東京駅。日本国内に鉄材が払底していた時代、東京駅の駅舎の復旧工事では、軍用機工場に眠っていたジュラルミンが構造材として使われた。線路は無事だったので、空襲の2日後には、わずか5本の運転ではあったが列車の運行が再開されたという。これは、筆者が入手した敗戦直後の航空写真(GHQが撮影したものと思われる)。屋根を失ったホームで多くの人びとが列車を待っている。
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1945~50年代。ジュラルミン製「ゼロ戦のパン焼き器」。GHQが国産航空機の製造を禁止。ゼロ戦をはじめとする軍用機を製造できなくなった「三菱重工」が活路を求めて製造したナベである。フタにスリーダイヤのマークが刻まれている。(筆者撮影。金沢市民俗文化財展示館所蔵)
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道具学の不思議な法則 連載10(2008年5月5日掲載)
【白亜紀】と【ジュラ紀】 / ■世界各地 【白亜紀】=戦時/【ジュラ紀】=戦後
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平時(通常期)
鉄製分銅(本用品)
大がかりな戦争がない時代、分銅は鉄、銅などの重金属でつくられる。
製造期=1910~20年代。製造地=京都府
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戦時=道具の【白亜紀】
陶製分銅(代用品)
金属資源が戦争にまわされると、分銅は土(陶器)でつくられる。
発生期=1938~45年。発生地=愛知県瀬戸市、岐阜県など
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戦後=道具の【ジュラ紀】
ジュラルミン製分銅(転用品)
焦土と化した地域では、分銅はジュラルミンでつくられる。
発生期=1945年~50年代。発生地=沖縄県
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「非国民」と呼ばれても 連載11(2008年5月12日掲載)
「割烹着(かっぽうぎ)」と「よそゆき」 / ■日本 1930年代~1945年
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1930年代、侵略戰遂行のために国内の物資が払底。国をあげて贅沢品追放と資源回収運動が行われた。「國防婦人會」のユニフォーム=「割烹着」姿で廃品回収するのは大阪市大正区の女性。手に古新聞、足元に空きビンや屑鉄が並んでいる。写真は内閣情報局編輯『冩真週報』1938(昭和13)年12月14日号より。
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一方、「非国民」「注意人物」と呼ばれながら、堂々と「よそいき」を着て繁華街をショッピングする女性たちがいた。戦時でも、決して全国民がカーキ色一色に染め上げられたのではなく、「自分のスタイル」を貫く人たちがいたことを忘れてはならないだろう。写真は同誌、1942(昭和17)年12月16日号より。
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男は戦場、女は工場 連載12(2008年5月26日掲載)
女性がつくった軍用機 / ■日本 1930年代~1945年
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昭和18年12月8日。「大東亞戰争二周年」の日、出撃前に整列した航空兵。〈われらまた戰力に戰力を蓄へ、大東亞の總力を結集し、いまや敵國の非望破砕の秋(とき)いたる〉とある。
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政府に徴用され、軍需工場で航空機を製造する女性工員。〈さあ、飛行機工場で、嫁入り前にお國につくさう〉〈可愛い少女たちでさへ鋲打ちが出來る〉。いずれも、内閣情報局編輯『冩真週報』昭和18(1943)年12月8日号
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セトモノ狂時代来る 連載13(2008年6月9日掲載)
【白亜紀】の代用品-1 / ■日本 1930年代~1945年
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金属品の供出が本格化したのは昭和16(1941)年だった。寺院の鐘は次々と工場へ運ばれ、鋳つぶされて兵器や砲弾となった。写真は「日立鑛山製錬所」での光景。〈灼熱の溶鑛爐(ようこうろ)に全關東から集められた梵鐘が輕々(かるがる)と身を躍らせてゐる〉とある。内閣情報局編輯『冩真週報』昭和18年1月20日号
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昭和10年代、【白亜紀】の代用品たち。上段左からガスコンロ、風炉(ふろ/茶の湯に使う丸形炉)、カマ。
中段左からおろし金(ふた組)、プラグ、剣山(ひょうたん型)、真空密閉容器(鑵詰の代用品)。
下段左からアイロン、ボルト&ナット、クギ、靴のカカト。すべてセトモノ(陶磁器)である。愛知県瀬戸市歴史民俗資料館所蔵(筆者撮影)沖縄市戦後文化資料室所蔵(Tabute muase撮影)。
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国策湯たんぽの退廃 連載14(2008年6月16日掲載)
【白亜紀】の代用品-2 / ■日本 1930年代~1945年2:鉄器時代
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1:土器時代 / 左から江戸後期の「通い徳利」。幕末期の陶製湯たんぽと横にした姿(1860年代)。 明治期の陶製湯たんぽ。
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2:鉄器時代 / 左からフランスの鉄板製ゆたんぽ(1920年代~現在)。日本の鉄板製湯たんぽ。大正12(1923)年、兵庫県尼崎市「マルカ金属」製。日本の鉄板製湯たんぽ(大正期~現在。「マルカ金属」製)。
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3:再び土器時代 / (国策湯たんぽ):昭和13~20年、【白亜紀】の代用品時代。左より陶製「愛國湯水丹保」(立命館大学「国際平和ミュージアム」所蔵。筆者撮影)。愛知・岐阜・三重の3県を中心に生産された代用品の陶製湯たんぽたち。(Tabute Murase撮影) |
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「命令書」なき軍の殺意 連載15(2008年6月23日掲載)
手榴弾 / ■沖縄 1945年
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セトモノの手榴弾(代用品) / 昭和19~20(1944~45)年、日本海軍が発注。本土の陶磁器生産地で量産され、一部は前線に配備された。上段「四式陶製手榴弾」。直径8.0cm。下段左:同手榴弾の底部。「189」という統制品番号が入っている。下段右:直径7.7cm。〈鉄の手榴弾は半径7m以内で殺傷力があるのに対し陶製のそれは、半径3m内で負傷させる能力〉だったとある。細かい陶片が飛散するだけなので、爆裂弾としては機能も性能も非常に低かったようだ。(写真と資料:瀬戸市歴史民族資料館『〈代用品〉としてのやきもの』より)
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鉄製手榴弾(本用品) / 昭和20年6月13日、糸満の国吉台で米軍に射殺された沖縄の女性。当惑した顔で米兵が手にしているのが、日本陸軍が昭和13年に製造した「九八式柄付手榴弾・甲」。彼女は〈医療班員らとともに国吉台地方面を駆け抜けていたところを射殺された。カバンには自決用の手投げ弾、小銃弾、包帯などの衛生材料が入っていた〉(写真:沖縄県平和祈念資料館「沖縄戦米軍記録写真-554」)
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「横文字パージ」狂騒曲 連載16(2008年7月14日掲載)
敵性看板・敵性商品 / ■日本 1941~45年
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「敵性看板」 / 昭和18(1943)年、摘発された看板の例。上段:「ケーキ屋」「蓄音機会社(NIPPONOPHONE)」「写真屋」「酒場」「薬局」「バー(WELCOME)」の各サイン。下段:横浜市中区の米英人を顧客としていた「対米通商路(弁天通り)」の商店街は、横文字をペンキで消して「大東亞戦争」の戦意高揚スローガンに書き換えた。
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追放された横文字商品。左上がMARUZEN、TOMBO、Yacht(ヨット)の鉛筆など学用品。各種の化粧品、薬品、洋菓子類。それに、PEPPER(胡椒)、Patrogen(粉ミルク)、TEA(紅茶)、TOMATO SAUCE(トマトソース)などが槍玉にあがった。Bull-Dog(ブルドック食品)は横文字パージの最中、1944年3月に社名を「三澤工業」と改称した。いずれも、内閣情報局編輯『冩真週報』昭和18(1943)年2月3日号。
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造幣局が「ニセ金」鋳造 連載17(2008年7月21日掲載)
陶貨(とうか=セトモノの貨幣) / ■日本 1944~45年
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アルミニュームの硬貨に残された戦争の痕跡。三枚重ねの「菊10銭アルミ貨」。「下」から「上」へ、昭和15年=1.5グラム→16年=1.2グラム→18年=1.0グラムと、約20%ずつ軽く、薄くなっていった。右:銅、ニッケル、アルミが軍需用にまわされると「錫貨」が発行された。〈貯金こそ誰にも出来る御奉公〉と書かれた貯金箱のまわりにあるのが十銭、五銭、一銭のスズの硬貨だ。
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昭和19(1944)年、当時の造幣局長が瀬戸の陶器会社に陶貨製造を依頼した委嘱状。愛知県瀬戸市歴史民俗資料館所蔵(筆者撮影)。右:鋳造された「1銭(壹錢)陶貨」の表と裏。直径=15ミリ、量目=0.80グラム。まるで、ままごとに使う「子ども銀行」の貨幣のようだ。沖縄市戦後文化資料室所蔵(いずれも、Tabute muase撮影)
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愛国主義、画餅に帰す 連載18(2008年7月28日掲載)
陶製鏡餅・陶製地雷 / ■日本 1940~45年
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陶製鏡餅 / 決定的な米不足のなか、1940(昭和15)年12月、正月用として陶器の鏡餅が瀬戸(愛知県)で製造され、全国のセトモノ屋で販売された。
上下高さ計10.6cm、最大胴径15.4cm。裏面に型印で「實用新案特許第一九三五四八号」。「愛知縣陶磁器統制聯盟」「合格」の証紙が。沖縄市戦後文化資料室所蔵(Tabute Murase撮影)
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1943~45年、陸軍が信楽(滋賀県)、丹波(兵庫県)などの陶器産地に発注した「三式地雷」。金属探知器には反応しないものの、「陶製手榴弾」と同様、爆裂弾としては体(てい)をなさないものだったようだ。上:直径22.2cm、下:直径22.4cm。(写真:瀬戸市歴史民族資料館『〈代用品〉としてのやきもの』より)
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紙の兵器で経済支配 連載19(2008年8月11日掲載)
軍票(ぐんぴょう) / ■日本・ソ連・アメリカ・沖縄・香港 1940年~現代
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日本軍が発行した軍票1937(昭和12)年以降、日本軍の占領地では85種類以上の多種多様な軍票(正式名は「軍用手票」)が乱発された。上段:1940年、中国で発行された「日華事変軍票・戊号拾銭」。「軍用手票」の文字が消えている。中段:1942年以降発行された「大東亜戦争軍票」のうち、マレー半島で発行された「に号10ドル」。「日本政府は、請求され次第、持参人に10ドル支払うことを約束します」と英語で大書されている。下段:ソ連軍が発行した軍票1945年、「蘇聯紅軍司令部(ソ連赤軍司令部)」が「満州」で発行したスターリンの軍票「壹佰圓(100円)。
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米軍が発行した軍票(B円) / 1946~58年、米軍が沖縄で発行・使用した「在日米軍軍票B円」の拾圓、壱圓、拾銭 。表には「軍票」、裏には「軍事布告に基き發行す」と英語と日本語で併記されている。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵(Tabute Murase 撮影)。
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愛国心は一夜で変わる 連載20(2008年8月18日掲載)
メンコ(パッチー) / ■日本 1945年
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愛国メンコ(軍人メンコ) / 1930年代~40年代前半、メンコは軍国主義一色だった。画題は日本軍軍人。左端より下へ「陸軍将校(重砲)」。「多門中将(満州・チチハル城入場)」。「林大将」。中央:1943年3月に発行された「情宣教育カルタ式メンコ〈ユ〉」。裏面、壁に耳あり障子に目あり、〈ユダンニテキガメヲツケル〉とある。右端より下へ「高射砲」。「騎兵(「支那事変」)」。「毒ガス部隊(砲台)」。
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アメリカ礼賛メンコ / 1945年8月以降、ヒーローは一変した。昨日までの「敵国=アメリカ軍(進駐軍)」が主人公となり、「敵性語」が氾濫する。上段左から「Headquarters(司令官)」。「Army(陸軍)」「Navy(海軍)」「Jeep(ジープ)」。下段左から「MP(憲兵)」。英単語メンコ「Fire(裏に日本語で「火事」とある)」。同「RIGHTEOUS MAN」。裏面には「正義の人」。
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帝国、民主国家に豹変 連載21(2008年8月25日掲載)
紙幣・伝単(でんたん=対敵宣伝ビラ) / ■日本 1944~48年
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戦前の「軍国紙幣」と米軍伝単 / 上段左:和気清麻呂・兌換券拾圓/1930(昭和5)年発行。左記をを模造した「米軍伝単」裏面のメッセージ/1944年。日本人の戦意喪失をねらって、戦費により国民生活が破壊されている実態を説いている。中段左:富士桜・五拾錢/1938年発行。中段右:靖国神社とトビ・五拾錢/1942年発行。下段左:楠正成・五錢/1944年発行。下段右:八紘一宇塔・拾錢/1944年発行。
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戦後の「民主化紙幣」 / 「DEMOCRACY!」国会議事堂・拾圓/1946年発行。上段左より「PEACE!」ハト・10錢/1947年発行。下段左より「FREEDOM!」板垣退助・五拾銭/1948年発行。守礼門・弐千円の裏面。源氏物語絵巻「鈴虫」の絵と詞書。右下の隅に紫式部/2000年発行。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
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戦時、最強の道具は? 連載22(2008年9月1日掲載)
女性 / ■英国・アメリカ 1939~45年
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英国の女性たちが着た戦時の制服 / 「ATS=国防義勇軍婦人部隊」の制服である。女性たちは、カーキ色の制服と帽子を「Lovely(カッコいい)」と歓迎したが、硬い革靴は足がマメだらけになって「But the shoes killed me(わたし、殺されそう!)」と評判が悪かった。(英国ロンドン「IMPERIALWAR MUSEUM=国立帝国戦争博物館」展示:筆者撮影)。
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軍需工場で働くアメリカの女性たち / 左:砲弾工場。右:軍用機工場。1941年、米国大統領・ルーズベルトはいった。〈われわれは、民主主義の偉大な兵器庫でなければならない〉(アメリカ大使館資料)。1943年、日本政府はいった。〈世界一にだらけ切ったヤンキーも、強健な男子は戰線へ、若い女はもとより主婦までが軍需工場へ。あのヤンキーでさへこんなに必死なのだ〉(写真・引用:内閣情報局編輯『冩真週報』昭和18年10月6日号)。
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英国・銃後の食糧事情 連載23(2008年9月15日掲載)
代用品・代用食 / ■英国 1939~45年
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金属品供出 / 1939年~1940年代前半、英国でも「家庭に眠る鉱脈=金属製日用品」の供出運動が行われた。ここに展示されているのはアルミ製の手ナベ、シチューナベ、ヤカン、鋳鉄製の門扉、フェンスなどなど。マネキンが着ているのは古着を再生した「Utility Dress=実用ドレス」。スカートの右下に置かれた白いカップ&ソーサーは「Utility Crockery=実用土器」と呼ばれた磁器製品の代用品。
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配給手帳 / 英国では、肉、小麦をはじめ主要な食品は政府の統制下におかれ、開戦直後の1940年1月から配給制度がはじまった。これはその「RATION BOOK=配給手帳」。この手帳は、戦時下、「NATIONAL REGISTRATION IDENTITY CARD=身分証明書」とともに、イギリス国民必携の重要書類だった。いずれも、ロンドンにある「IMPERIAL WAR MUSEUM(国立帝国戦争博物館)」の展示より(筆者撮影)。
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ヒトラーの熱弁の陰で 連載24(2008年9月22日掲載)
人絹のドレス・魚革製靴 / ■ドイツ 1930年代~45年
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ヒトラーと人絹のドレス / 左:1938年、アドルフ・ヒトラーは「ミュンヘン一揆」の舞台となったビアホールで記念式典を開いた。ヒトラーの左が「TheShadow Man(影の権力者)」と呼ばれていた秘書のマルティン・ボルマン。同じテーブルの右手に、副総統へスと空軍総司令官ゲーリングが座っていた。右:「人造絹糸のドレス」。同じ年、ドイツは深刻な物資不足に見舞われており、市民生活には化学合成素材の「代用品」があふれていた。
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各種の代用品 / 左上:「松葉の綿の安楽椅子」。左下:「GLAS EINLAGE=ガラスの洗濯板」。中央:「ベークライトの食器」。右端上段より「クジラのヒゲのブラシ」。「魚革製ミュール(靴)」。「魚革製ハンドバッグ」。いずれも、内閣情報局編輯『冩真週報』1938(昭和13)年12月14日号(コラムの「宝塚歌劇団」関連記事も)。
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国民、心身ともに「停電」 連載25(2008年10月6日掲載)
ブラックアウト・ツールズ / ■ヨーロッパ・日本 1945年
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英国
BLACK-OUT(灯火管制)仕様車 / 上段:英国政府・国立安全第一協会のポスター。ヘッドライトなど灯火関係の規制のほか、〈バンパーやボディー側面の金属部は光が反射しない白いつや消しペンキを塗る〉など14項目の指示がある。下段: 英国/「欧州戦勝利」を伝える新聞 / 1945年5月8日の「ニューズ・クロニクル」紙。〈今日はVデー(勝利の日)だ〉という見出しが躍っている。〈午後3時にチャーチルが、9時に国王が正式声明を出す。今日と明日は「戦勝記念日」として祝日にする〉。写真は、前夜、勝利を期待してピカデリー広場に集まったロンドン市民。出展「IMPERIAL WAR MUSEUM(英国国立帝国戦争博物館)」資料より。
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日本
灯火管制用のシェードと電球 / そのころ、日本の国民はブラックアウト(灯火管制)の闇のなかで身をすくめていた。上段:紙製電灯傘。下段:灯火管制用電球「マツダランプ100V-5W(現東芝製)」。電球内に遮光皮膜が塗られているので光が拡散せず真下へ落ちる。Tabute Murase撮影。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
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敵も味方も毒ガス攻撃 連載26(2008年10月20日掲載)
ガスマスク / ■日本・英国 1938~45年
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日本のガスマスク
1938年夏、政府の写真広報誌は「空襲時の避難法」「毒ガス対処法」の緊急特集号を組んだ。左:「家庭婦女子用防毒面(ガスマスク)/2円50銭(当時の映画館入場料の約5倍)」。右:都心では大規模な防空・防毒ガス演習が実施され、東宝劇団の役者たちが真に迫る演技で実演した。内閣情報局編輯『冩真週報』昭和13(1938)年8月31日号)。
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英国のガスマスク
1939年秋、英国政府は、開戦と同時にドイツ軍のGAS ATTACK(毒ガス攻撃)に備えて情宣活動を開始した。左:〈日ごろから素早く装着する練習をしておきなさい。ガス弾が着弾する音が聞こえたら、屋内ではただちに息を止めてマスクを装着し、窓をぴったり閉めなさい〉。右:〈屋外では、マスク装着後に上着の襟を立て、手袋をはめ、近くのビルに逃げ込みなさい〉。IMPERIAL WARMUSEUM(国立帝国戦争博物館)のポスターより。
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女の胸を戦争が変えた 連載27(2008年10月27日掲載)
ブラ / ■欧米・日本 1910年代~現代
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1914~18年、第一次世界大戦時の英国政府のポスター。〈この女性たちは義務を果たしている〉〈軍需品製造の訓練を受けろ〉。画面では、若い女性が長い髪を作業帽でまとめ、上着に腕を通している。彼女が作業着の下に着けていたのはコルセットだった。左手には、銃を担いだ男性が「行ってきます。後はよろしく」と戦地へ出かける姿が。
ある日、男社会は気がついた。「コルセットなんか着けていたら仕事にならんじゃないか…」。戦時下、軍需工場の生産効率は国の存亡を左右する生命線だった。まず、身体の屈伸が効く木綿製のコルセットが考案され、以後、コルセットは競うように小型化・簡易化し、消滅の道をたどることになる。「IMPERIAL WAR MUSEUM(英国国立帝国戦争博物館)」の展示より。
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1914年、アメリカで誕生したブラは世界を席巻した。日本で「乳おさへ」「乳バンド」と呼ばれたブラがデパートで販売されたのは大正末期(1920年代)から。そのほとんどがアメリカやイギリスからの輸入物で、一般家庭では「婦人雑誌」に掲載された型紙を参考に、白キャラコや綿モスリンで手づくりされていた。上は現在の品。東京・新橋地下街で見かけたブラのディスプレイ。(いずれも、筆者撮影)
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「大国」 VS 「小国」の道具 連載28(2008年11月3日掲載)
ヒゲ剃り(【代用品】と【転用品】) / ■ヨーロッパ・アメリカ 1940~60年代 ■ベトナム1960~70年代
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1940~50年代/英国製「ヒゲ剃りセット」
豚革のケースに入った旅行用洗面具(合成樹脂製)。裕福な英国紳士が船旅をするときに使った品と思われる。上段左、中央:安全剃刀セットとそのケース。「Gillette/MADE IN ENGLAND」=ベークライト。上段右端より下へリップクリーム=ベークライト。ヘアチック=ベークライト。中段中央:歯ブラシ=セルロイド。下段中央:クシ=ナイロン。下段右端:替え刃。これらの合成樹脂は、着色してプレシャス・ストーン(貴石類)や宝飾素材に見せかけた代用品だ。ベークライトはガーネット(ざくろ石)のイミテーションだし、セルロイドとナイロンは鼈甲のふりをしたフェイク(模造品)である。いずれも、品格より見かけ、品質より収益を優先させる近代合理主義と功利主義の産物だ。
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1960~70年代/ベトナム製「ヒゲ剃り」
ジュラルミン製の剃刀ホルダー。上段:全長10cm、重さ20g。下段:背ビレをもちあげて替え刃をセットする(開ききると全長約15cm)。写真は両刃の替え刃をはさんであるが、実際には片刃のほうが使いやすそうだ。やさしい曲面をもつ魚体を握って顔を剃る。撃墜した米軍機の素材を転用してつくられたものだが、「工芸品」の域に達した見事なデザインである。(いずれもTabute Murase撮影)
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ナベにできない米軍機 連載29(2008年11月17日掲載)
墜落機 / ■ベトナム 1968~1975年 ■沖縄 1968~2008年
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ハノイ/ナベにされた墜落機
ベトナム戦争下、北ベトナム軍の対空砲火を浴 びて撃墜された戦闘爆撃機である。 1972年、戦時下の北ベトナムを取材したカメラマンの石川文洋氏はこう記す。ベトナムでは〈墜落現場には、兵士よりいち早く農民が集まって飛行機の部品を運んでいくという…(中略)…バイタリティーに富んだ、実にベトナムの農民らしいユーモアがそこに感じられた〉。
持ち去られた米軍機の部品や機体は、その後どうなったのか?ハノイ市内の〈デパートには、早朝から多数の人々が集まってくる。撃墜された米軍機でつくられたナベやカマ、食器などの日用品、自転車の部品、子供のおもちゃの店に、人だかりができる〉。空から降ってきた「資源」は、常に、有効に活用されるのである。(道具学会・山口昌伴氏撮影)
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沖縄/ナベにされなかった墜落機
2004年8月13日、米海兵隊のヘリCH-53シー・スタリオン(海の種馬)が沖縄国際大学本館脇に墜落。轟音とともに火柱と黒煙が立ちのぼり、宜野湾市の空を焦がした。爆風と炎で本館は壊滅的な損傷を受け、大学の機能が麻痺する事態に陥った。このとき、なぜ、沖縄の人びとはベトナムの人びとのように、この墜落機を鋳潰してナベをつくらなかったのか?
それは、人びとよりいち早く駆けつけた兵士がいたからだ。野戦服を着た海兵隊員たちである。彼らはただちに現場を封鎖し、当事者である大学関係者の立ち入りを禁止した。沖縄県警は現場検証を拒否された。それは、この南の島が日本ではなく、「アメリカの領土内」として処遇されたからだ。沖縄の人びとの人権と日本の主権はあからさまに無視された。だれ が主人なのかを見せつけられた……。(沖縄国際大学提供)
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艦砲射撃の「喰い残し」(カンポーヌ・クェーヌクサー) 連載30(2008年11月24日掲載)
紅型衣装 / ベビードレス ■ 沖縄 1945年〜1950年代
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紅型の舞台衣装
「カンポー」は艦砲射撃、「クェーヌクサー」は喰い残しという意味だ。1944〜45年、米軍の容赦ない砲撃と空爆を受けてもなお、沖縄には「餌食」にされなかったものが確実に残った。1946年10月、沖縄民政府文化部の音頭で郷土芸能復興のために常設劇団が結成された。そのうちのひとつ「竹劇団(北部・田井等)」で使われた衣装。黄色の地色が、米軍の常備品=マラリアの特効薬・キニーネで染められている。(写真提供:うるま市立石川歴史民俗資料館)
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誕生祝いのベビードレス
1945〜50年頃、パラシュートの生地を利用してつくられた晴れ着だ。米軍のパラシュートには絹製とナイロン製があったが、この品は天然シルクと同様の黄ばみ方をしており絹製と思われる。平時にあれば繻子(しゅす)のドレスを艦砲射撃の(カンポーヌ)/廃墟にあればパラシュートで縫う──。(写真提供:沖縄県平和祈念資料館・宮里正子氏)
☆ 特別企画展《カンポーヌ・クェーヌクサー/沖縄・戦後の混乱から復興へ》開催中。沖縄県平和祈念資料館:2008年12月21日まで
(問合せ先:098-997-3844)。同・移動展。2009年1月16日〜2月24日。於/八重山平和祈念館(問合せ先:0980-88-6161)
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人形、大統領を笑う! 連載31(2008年12月1日掲載)
御使人形/サルコジ人形 ■ 日本 1930年代~1945年 ■ フランス 2008年
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Ⅰ:1930年代~1945年/日本
「皇軍慰問/御使人形」。背後にある便箋、封筒とセットになったもので「慰問袋」に入れて戦地へ送られた。この紙人形は、「拝啓、貴方様は御元気でせうか?」と、内地の人びとの代わりに戦地までお使いをする身代わりの人形だった。大日本画劇株式會社發賣。人形の身長=14cm。沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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Ⅱ:2008年/フランス
「Le Manuel Vaudou Nicolas Sarkozy/Yael Rolognese=サルコジのヴードゥー人形」K&B Publishers 制作。人形の身長=22cm。12本の針が添えられ、ヴードゥー教の呪術師が監修した使用法のマニュアルが付いている。この人形は、大統領に呪いをかけ、ウラミを晴らそうというヴードゥー人形。日本でいえば、丑の刻参りの藁人形だ。夜な夜な、憎き相手に見立てたカタシロを神社の御神木にくくり、五寸釘で……。
Ⅱは、権力者を笑い倒すべく誕生したカタシロだ。一方、Ⅰは皇国史観が憑依したヨリシロである。この二種類の人形に宿るのはかたや自由な批判精神、こなた不自由な追従心──。 いま、どっちの人形を「おもしろい」と想うのか?
その想像力が一国の「戦争と平和」のカギを握ることになるかもしれない。
(Tabute Murase撮影)
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手づくりジュラルミン器 連載32(2008年12月8日掲載)
無一物が生む創造の力 ■ ベトナム 1960~70年代
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2002年12月、「ハノイ・ハイフォン空爆」30周年を伝えた「Viet Nam News」の一面には、こんな見出しが躍っていた。
〈Lest we forget=忘れちゃいけない〉写真には、ハノイ市内の公園の池のなかで無惨な姿をさらす米軍の墜落機が映っていた。
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これがその撃墜された米軍機。いまでも「抗米戦争」のモニュメントとして残されている。(道具学会・山口昌伴氏撮影)
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北ベトナムのデータによれば、米軍の爆撃機や戦闘機は4000機以上撃墜されたとある。豊富な原材料を使ってつくられたのが、この道具たちだ。
クシ(櫛)が4本。一番上のクシにはどこか反抗的な雰囲気が漂っている。ハノイの下町の不良少年がつくったものかもしれない。背にギザギザの逆刃、柄には牙を剥いたホオジロザメが点刻されている。クシの下のホイッスルは、粗く無骨なデザイン。民兵のリーダーが軍事訓練に使ったものだろうか。
右手の髪梳き用レザーには、なぜか米国製の替え刃がぴたりと収まる。一番下は、現代アートのひょうきんなオブジェのように、徒にサイズをデフォルメ(誇張)した栓抜きである。長さが約24cm。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。(Tabute Murase撮影)
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922) |
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何はさておき生きる! 連載33(2008年12月29日掲載)
工芸化されたジュラルミン器 ■ ベトナム 1960~70年代
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米軍の撃墜機でつくられたジュラルミンの道具類。米軍の空爆下、北ベトナムの人びとが並々ならぬ情熱を傾けてつくっていたのが、撃墜した米軍機を素材にしたこれらのジュラルミン製の道具類である。
それぞれの品の持ち味はちがうが、いずれも、一時しのぎの「代用品」ではない。ベトナムの伝統的技術──鍛冶職人や金細工師の精緻な金属加工のワザが発揮された工芸品だ。プロがじっくり腰を据え、一級の商品として製造された道具の風格をもっている(実際、戦時下、ハノイ市内のデパートで販売されていた)。
左上:やわらかな曲線の柄に国章の星をあしらった大型ナイフ(柄がジュラルミン、刃は鋼鉄製)。
左中:ユーモラスな魚の形にデザインされた魚形ヒゲ剃り(連載28参照)。
左下:ハイテックな感覚のバ リカン。
右上:草花紋を刻んだクシと女性の横顔を浮彫りにしたクシ。
右下:剃刀ホルダー。
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左上:眼鏡ケース(細かな亀甲紋)。
左中:フォーク(草と花の浮彫り)。
左下:磨き込んだ紫檀の枠を使った七つ珠算盤(そろばん)。
右:バウハウス様式のモダニズムを思わせる扇風機(羽根も台座もジュラルミン)。
Tabute Murase撮影。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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ホー・チ・ミン・サンダル 連載34(2009年1月12日掲載)
南の国のタフな履き物 ■ ベトナム
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ベトナム製ホー・チ・ミン・サンダル
1950年代はフランス軍、1960〜70年代は米軍の軍用タ ヤを素材にしてつくられた。解放軍の兵士たちがこれを履き、山岳地帯やジャングルを駆け巡ってゲリラ戦を展開したので「抗戦靴」ともいわれている。ベトナム・フエ市で入手。長さ=約26cm、幅=約9.5cm、重さ(片足分)=約370g。
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中国製ホー・チ・ミン・サンダル
製造年代不詳。工場で原料用ゴムを型に流し込んで大量生産された品。中国のお家芸=コピー品である(本物に比べ、耐久性が著しく劣りそう)。商標権を主張するつもりだろうか、サンダルの裏に「中国」と大きく書いてある。ハノイで入手。長さ=約24cm、幅=約9.5cm、重さ(片足分)=約317g。
Tabute Murase撮影。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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罠(ワナ)にかかった大ネズミ 連載35(2009年2月2日掲載)
トラップ(罠)■ ベトナム 1950~70年代
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仏・日・米の捕鼠器(ほそき)
730年前、13世紀末に出版されたヘブライ寓話集の挿画には、現代の捕鼠器と同じ原理のネズミ捕りがすでに描かれている。そのうちのひとつが、ネズミがおとりのエサに触れるとストッパーが外れ、強力なバネ仕掛けの歯が襲いかかるトラップだ。
これは、1870~1970年代の100年間に、ベトナムを侵略した3つの帝国の「バネ式ネズミ捕り」である。
左:フランス製「ネズミ叩き=tapette a souris(タペッタスリ)」。
中:日本製「パチンコ」「ギロチン」。
右:アメリカ製「ネズミバサミ=rat trap」。
いずれも台は木製、現在使われている現役の品だ。
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ベトナムの捕鼠器
米軍の鋼鉄製弾薬ケースを利用したバネ式トラップ(下は、同じ品の裏側。弾薬箱の側面だということがよくわかる)。
全長:17.2cm、幅:10cm、重量:179グラム。抗米戦下の1950~70年代、「解放軍」のゲリラ兵士が手づくりしたものと思われる。フエで入手。
ベトナムの人びとも、大昔から、ネズミ対策には知恵を絞ってきた。たとえば、彼らは古代エジプト人と同様に身近にネコを飼ってきた。ベトナムの十二支暦には「卯=ウサギ」の代わりに「ネコ」が登場する。子年・水牛年・寅年…...の次にネコ年(クイ・マオ)が来る。それだけ、水牛やネコが生活に密着した動物だったということだろう。
1975年=ネコ年の4月30日朝、サイゴンは陥落した。インドシナ半島のバネ式トラップに打ちのめされたのは、アメリカ合衆国という大ネズミだった。
Tabute Murase撮影。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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錆びた鉄器 連載36(2009年2月9日掲載)
本用品に勝(まさ)った代用品 ■ ベトナム 1950~70年代 ■ 沖縄 1950~現代
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ベトナムで発生した「代用鉄器類」。米軍のPatrol Boat of River(河川哨戒艇)や軍用車量の鉄板を素材にしてつくられた。
左から小型フライパン、手鍬、バタフライ・ナイフ、折り畳み式包丁(開閉)、バケツ(上面・底面)。
ベトナムの人びとは、1970年代の北爆下、米軍が投下した不発弾の爆薬を抜き取り、下記の「開学の鐘」と同じような空襲警報用の半鐘をつくる(バクタイ省の例)など多様な代用品の鉄器を生み出した。
Tabute Murase撮影。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922
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「沈金刀」の素材となる古い柱時計のゼンマイ。
長さ約2m、幅19mm青光りする鋼である。職人の世界では、よく、身近な素材を利用して独自の道具を創り出すが、沖縄の伝統漆器の加飾方法「沈金=漆の器に彫刻刀で絵の線を彫り、その溝へ金粉、金箔を摺り込む技法」では、このゼンマイを彫刻刀にしている。
これを任意の長さに切り、先端を砥石で研いで刃に仕立て、ペンチでひねって曲げてやる。竹の棒や割り箸にヒモで固定して出来上がり。この「バネ刀」、いまでは沖縄ばかりか、日本各地の沈金師の「座右の道具」となっている。
(Tabute Murase撮影)
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琉球大学「開学の鐘」。1950年5月、琉大は灰燼に帰した首里城の跡地に誕生した。しかし、時は沖縄戦直後の無一物の時代。その日、大学は記念すべき開学を告げる鐘を用意できなかった。そこで人びとは米軍が使い捨てたガスボンベを吊るし、高らかに打ち鳴らしたのである。
開学の当日から、57年にセルフタイマーのベルが導入されるまで、授業の始業・終業を告げる時鐘としてこの「代用品」が使われた。56年に図書館が火事になったとき、職員のひとりがこの鐘を叩いて学生に火災を知らせたともいう。
(琉球新報撮影) |
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スーベニール(観光土産) 連載37(2009年3月2日掲載)
コザ 米軍基地(ベースキャンプ)ブルース
■ 沖縄 1969年~現代 ■ ベトナム 1970年代~現代
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1969年夏、沖縄はベトナムだった。コザはサイゴンだった。その名残りはいまも沖縄とベトナムの双方に残っている。上下の写真のスーベニールが酷似しているのは偶然ではない。腸(はらわた)を裂き、骨を砕く対人殺傷兵器でつくられた栓抜き、灰皿、ランプ、ライター、煙草ケース──。
タフさを気取る異国の大統領の命令で戦場となった国や地域。そこでは、血なまぐさい【戦世の道具】が人びとの日々の糧となる。
沖縄の観光土産品/現代
a:米軍関係者専用の黄色いナンバープレート。これは沖縄市戦後文化資料室所蔵の資料(写真提供:沖縄市総務課市史編集担当)。以下は、最近、那覇の国際通りで入手したもの。b:機関砲弾の栓抜き。c:機銃弾。d:砲弾の薬莢を利用した灰皿とその裏面。e:ランチャー砲弾。
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ベトナムの観光土産品/現代
f・g:薬莢を利用したオイル・ランプ。h:「CUCHI TUNNEL」と刻印された銃弾ライター、上がキャップ。「ク・チ・トンネル」は、解放戦線が構築した地下網。現在、ベトナムの有力な観光施設になっている戦跡だ。i:撃墜した米軍機のジュラルミンを鋳直したライター。j:同、シガレット・ケース。
(b~j:Tabute Murase撮影)。いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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砲弾包丁 連載38(2009年3月16日掲載)
金門島は金(かね)へんブーム■ 金門島 1949~58年~現代
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工場に集められた中国大陸からの砲弾
いま、台湾が実効支配している金門島は、1949年10月の「古寧頭(こねいとう)の戦い」 以来、中台軍事対立の激戦地となってきた。大陸から撃ち込まれた砲弾は100万発以上といわれ、現在、「金合利鋼刀工場(CHIN HO LI STEEL KNIFE)」には、土中から掘り出された砲弾が山のようにストックされている。下の写真は炸裂しないプロパガンダ砲弾(模擬弾)。
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成型・研磨される包丁と完成品の中華包丁
砲弾は焼きを入れ、鍛えられ、グラインダーと砥石で研磨されて完成する。下の写真(左)は、柄も刃も砲弾の鋼鉄を素材にした「鋼柄鋼刀(こうへいこうとう)」。「MAESTRO WU=呉名人」のブランド名で国際的に知られた観光土産となっている。
(写真提供:いずれも石田美佳氏)
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空き缶-1 連載39(2009年3月23日掲載)
カンカラ一個が全財産 ■ 沖縄 1945年~50年代
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1945年/米軍が設営したテント村(収容所)
沖縄戦で生き残った人びとの生活は、収容所のテント村からはじまった。軍用トラックが、大はドラム缶から小はビスケット缶までさまざまな缶詰を搬送し、その空き缶が人びとの貴重な生活財となった。大型の空き缶はカンカラ三線のボディに加工された。トイレの代わりの便器になった。ナベがなかった収容所では、空き缶で飯が炊かれた。一日三回、その飯でつくられたおにぎりと空き缶一杯分の汁が配られた。収容所では…と、体験者が語っている。〈空き缶が食器だった。食べ終わったらまた洗って腰にずっとさげているわけ〉〈置いておく場所もないさあね。それ一つをずっとさげていた〉(読谷村史「戦時記録/下巻」第六章 証言記録・沖縄県立農林学校第四十二期生座談会)。
写真:那覇市『写真でつづる那覇戦後50年/1945─1995』より(写真提供:那覇市)。
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1950年代/那覇市内の雑貨屋
戦後ほどなく、街には各種の店が開業した。雑貨屋の店頭には女性誌や子ども向け雑誌と並んで「空き缶細工」の箱、茶筒、灯油ランプが売られていた。素材は、米国産のバドワイザーとパブスト・ブルー・リボンのビール缶。このころはまだアルミ缶が開発されておらず、いずれも ブリキのカンカラである。缶の原料とラベルから判断すると、この写真は1952年前後に撮影されたものと思われる。この時代、空き缶の「資産価値」は依然として失われていなかった。収容所時代と比べれば、人びとの生活はたしかに向上したかもしれない。しかし、それは著しく劣悪な状態から、単に劣悪な状態への向上だった。
写真:那覇市『沖縄の慟哭・下/市民の戦時・戦後体験記』より
(写真提供:那覇市)。
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コザのパークアベニューで「道売り」されていた品だ。缶コーヒーの空き缶を6個使って、1個の煙草ケースがつくられている。作者は久米島出身の比嘉正輝氏と聞く。缶の絵柄を合わせる誤差が、0コンマ何ミリという精妙な工芸品に仕上がっている。沖縄では、米軍兵士が捨てた空きびんのアートが、いまをときめく「琉球ガラス工芸」となった。空き缶アートは、すぐれて同時代的なモダンアートになるだろう。すでに、カンカラ三線は那覇空港のショップにデビューしている。多彩な「琉球カンカラ工芸」があってもよいと思うのだが。
(写真提供:沖縄市総務課市史編集担当)
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空き缶-2 連載40(2009年4月6日掲載)
路上生活者(ストリート・チルドレン)のトランクンカラ一個が全財産
■ セネガル(アフリカ) 2000年代
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セネガルのトランク
上:ストリート・チルドレンがマルシェ(市場)で売る観光土産品と、その原料となる欧米産のビールや清涼飲料水のアルミ製空き缶。
下:フタを開けると、雑誌から切り取ったディズニー漫画が内張りされている。ウォルト・ディズニー帝国の文化的支配が、西アフリカのスラム街にまで及んでいるということか。
トランクに使われたアルミ缶飲料の製造国は、ざっと次のとおりである。
コカ・コーラ、ペプシ、バドワイザー(米国)。ギネス(英国)。ハイネケン、スリー・ホース・ビール(オランダ)。カステル・ビール(フランス)。カス・オレンジ・ソーダ(スペイン)──ほらまた、アフリカに、植民地支配の宗主国が勢ぞろいだ。
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そのトランクを初めて目にしたとき不思議なデジャ・ヴュ(既視感)に襲われた。どこかで見たことがある?
それは、1960年代に出逢った現代アートの作品と双子のようによく似ていた。大量の千円札でまるごと梱包されたトランク──そう、赤瀬川原平の作品「模型千円札で梱包されたトランク」だ。梱包芸術の面白さは、モノを包み隠すことによって、むしろ、そのモノの本質をあらわにしてしまうことだ。
あたかも、性器をあからさまに隠そうとするポルノ写真のモザイクが、世の中には性器そのものよりはるかに猥褻なものがあることを見せてくれるように。赤瀬川が「通貨=千円札」で包んだそのオブジェは、現代社会の貨幣経済のワイセツさを静かに暴露していた。
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セネガルの首都・ダカールのマルシェ。大型トランクをはじめ、多彩な空き缶細工が売られている。
(Leslie Schuffner 撮影)
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子どもたちが売るカンカラ・アート
上段左より、コカコーラ缶のベスパ、同、灰皿。中段左からハイネケン缶のバギー。ペンキ彩色のバス。下段は共に、アルミ缶を切り貼りしたコラージュ絵画。
これらの作品はラディカル(根源的)に「芸術」している。下段のコラージュは、赤、黄、緑、黒、ゴールドと強烈な原色で構成された、新感覚のアフリカン・ポップアートだ。遠からず、アフリカ発の無産者のオブジェが、世界のアート界を震撼させる日が来るような予感を覚える。
(Tabute Murase 撮影)。下段右以外は、沖縄市戦後文化資料室所蔵。
沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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注連縄(シメナワ) 連載41(2009年4月13日掲載)
金塩ビの縄に宿る神は? ■ 日本 2000年代
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17世紀の「すまふとり」と1940年代の「靖国切手」
上:菱川師宣が『和国諸職絵尽(わこくしょしきえづくし=1685年刊)』に描いた相撲取りと行司。力士たちは裸足だが、行司は足袋をはいている。現在でも十両・幕内格の行司は足袋をはき、三役格と立行司は草履をはくことが許されている。
力士たちは支度部屋を出ると通路と花道を裸足のまま歩いて土俵へ向かう。その通路は屋外の穢れた道路と連続している。そこは一般の観客がぬかるみを歩き、トイレへ寄った革靴やヒールで歩きまわる土足領域だ。力士たちはそんな不浄の床を履き物もはかずに歩き、ずいと土俵へ上がる。彼らは取組前に力水で口をすすぐが、その水で足を浄める朝青龍や山本山の姿を見たことがあるだろうか?
そう、力士たちは土足状態の足の裏で直接土俵を踏み付ける。これは公然の秘密だ。相撲の土俵は日本相撲協会から、実際には「神域」として遇されていない。
にもかかわらず、土俵はあいも変わらず神聖視され「女人禁制」だ。なぜ女性が土俵に上がると穢れるのか? 相撲協会から理にかなった説明はない。〈先人が守り続けてきた伝統だから=舞の海秀平氏の談話。
2004年4月「毎日新聞」〉といいつのるばかりだ。声高に口にされる伝統や神事というのは、けっこういい加減なのだ。黒川真道編『日本風俗図絵2』柏書房より。
下段左:1943年発行の靖国神社切手17錢。下段右:1945年2月(敗戦の半年前)発行の同27錢。
戦前、日本の神社は軍国主義と分かちがたく結びついてきた。国家神道の名のもと、植民地各地に神社が造営されて侵略戦争の一翼を担った。
〈満洲神社造営費十一万四千円=1920年1月「中外商業新報 」〉〈朝鮮神社造営費七万七千三百五十二円=1924年6月「京城日報」〉……。
植民地の人びとは自国の文化を否定され、日本の神社への参拝を強要された。皇民化教育により、会話は日本語、飲むのは日本酒、拝むのは日本の神。その挙句、日本国のために戦場で命を捧げさせられた。下段写真は共に戦中の靖国神社の切手だ。戦後、国家神道の象徴としてGHQの命令で発行禁止となり「追放切手」と呼ばれている。
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2000年代の注連縄(シメナワ)
上段左は、秋田県Y市の例。同右は、神奈川県K市の例(筆者撮影)。それ以外は、石川県石川郡の例(写真提供:SOHO西村建築設計室西村尚倫氏・登仕子氏)。これらは、すべてが「塩化ビニール製」──代用品の注連縄なのである。
稲ワラの注連縄は風雨にさらされると色褪せ、腐蝕する。注連縄をプラスチックにするのは、メンテナンスフリーだから。腐らないから。懸けかえる手間が省けるからだ。かくて、神社の注連縄は一年中張りっぱなしになる。
なんという御都合主義!
これまで、塩ビの注連縄を紹介するたびに読者から寄せられるのは「まさか!?」「罰当たりだ」「神への冒涜だ」という声である。
かつて、稲ワラの注連縄に宿ったのは軍国主義の神だった。いま、塩ビの注連縄にはどんな神が宿るのか?
それは「御都合主義」という神だと思う。「聖」とはほど遠い、極めて「俗」な利益優先主義。ごく卑近で、わかりやすく、誰もが反対しにくい戦争の口実を持ち出すネオ・ミリタリズムという神だ。 ソマリア沖の「海賊退治」や北朝鮮の「飛翔体」。それに対する政府のはしゃぎようを見ると、もう戦争ごっこがはじまっていると思う。
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突撃一番 連載42(2009年4月20日掲載)
帝国主義は「春」を売る ■ 1930年代~現代
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「突撃一番」と「日の丸収納容器」
左:ゴム製コンドーム「突撃一番」(写真資料を参考に筆者が作画)。日本の男たちが自らの性行為を戦闘行為になぞらえたのは滑稽なマチズモ(男らしさの誇示)だ。相手の女性を「敵兵」に見立てたのはタチの悪いミソジニー(女体コンプレックスが根にある女性嫌悪)だろうか。息子どこ行く青筋立てて、戦もないのに鉄カブト。
右:砲弾に擬され、マッチョに屹立する日の丸の収納器である。中には、日の丸の旗と金色の国旗玉、半旗を掲げる際に玉を包む黒い布がセットされていた(Tabute Murase撮影)。
いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。沖縄市「しーぶんかん」に展示中(電話 098-929-2922)
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戦意高揚ポスター「國を舉げて」
昭和13年に施行された「国家総動員法」のもと、軍人はもとより、女性、工員、商人、農民、会社員──日本人のすべてが「滅私奉公」を強いられた。写真は、国民精神総動員のためのプロパガンダ・ポスター(写真提供:読谷村・村史編集委員会)。
「従軍慰安婦問題」の政府責任を考えるとき、慰安婦たちが強制連行されたのかどうか? その証拠の有無だけに目を奪われてはなるまい。
この「問題」は沖縄戦での「集団死」と瓜二つの構造がある。日本では「国家総動員法(昭和13年)」のもと、国を挙げて、あらゆる物的資源と人的資源(労働)が国家に捧げられた。それは写真のポスターを見るまでもなく異論をはさむ余地はない。その「労働」のなかに、従軍慰安婦たちの性的サービスが含まれていたのだ。
慰安婦も、集団死も、日本の「戦時法制度」と武装した軍・憲兵隊・特高警察を背景とした強制力──つまり、絶対的に優越した国家権力の支配下で発生した。その史実を直視すれば、「従軍慰安婦=SEX SLAVES(性的奴隷)」を存在させたこと自体が、国家が責任をとり、政府がペナルティ(賠償)を払うべき戦争犯罪なのだ。
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日本国憲法 連載43(2009年5月4日掲載)
使いこなせ! 平和憲法 ■ 日本 1945~47年
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「無能力者」時代の女性たち
「消防頭巾」ともんぺに身を固め、日比谷公園での防火訓練に動員された女性たち。〈水、砂、座蒲団、むしろ、濡れかます等で延燒をふせぎ、用意さへよければ女手で十分焼夷彈の災厄を免れ得ることを思はしめた〉とある。
内閣情報局編輯『冩真週報』昭和13(1938)年8月31日号より。
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「憲法24条」時代の女性たち
上:自分たちで主催した講演会会場で、ベアテ・シロタ・ゴードンさんを迎える三重県伊勢市の女性たち。
下:同会場でベアテさんとトークする筆者(ゆみこ・ながい・むらせ)。ベアテさんは呼びかけた。〈女性たちは、憲法に保障された権利を実現するために、毎日の生活のなかで、繰り返し繰り返し、闘いつづけなければならないのです〉
日本国憲法は、まさに、あの愚かな戦争があったからこそ生まれた最大の【戦世の道具】だった。310万の日本人戦争犠牲者たちから手渡された【平和遺産】だ。二度と戦争を起こすな! と。いまある平和は、日本だけでなく世界中の人びとの大量死によって購われたファシズムからの自由と解放である。
逆説的にいえば、この平和憲法こそ、日本が世界に誇るべき「最終兵器」でもある。
平和憲法を床の間に飾っておいてどうする? 着こなせ! いつも着慣れたTシャツのように。毎日使う台所の包丁のように。九条をそして二十四条を。
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洋楽レコード盤・蓄針再生研磨盤 連載44(2009年5月11日掲載)
焼け跡で踊るブギウギ ■ 日本 1945年~1950年代
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敗戦直後の絵葉書
京都・三条大橋で、舞妓さんの姿を物珍しそうに目で追うGIたち。絵葉書の表題は「アメリカの兵隊さんと新日本風景」とあるが、この光景はまさしく、主要なホテルや施設を異国の占領軍に接収された古都・京都が初めて味わった新風物詩だった。
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左/ビクター・レコードの78回転SP盤ジャケット。右/蓄音機用の鉄針を研ぐ「蓄針再生研磨盤」。レコード盤に見立てられている。(Tabute Murase 撮影)。
あのころ、東京の舗道は空襲の名残りで赤錆色に焼け爛れていた。その道を往く、家も家族も失ったなりふりかまわぬ人びとは忙しそうだった。彼らは、いま同じ舗道を歩く、ダークスーツを着て忙しそうな、まるで召使いのような顔をした人びとに比べ、なぜ、あんなに元気だったのだろう?
街に流れていたのは、狂おしいブギのリズムだった。
♪ 東京ブギウギ リズムうきうき! ヘーイ!
笠置シヅ子が日劇の舞台で腰を振り、胸を揺すってシャウトした。肌もあらわな踊り子たちが白い足を高々と蹴り上げる。日本社会を覆っていた直立不動の呪縛が解けたのだ。ジャズ、カントリー、クラシック。戦時下に敵性音楽として禁止された洋楽レコードが爆発的に売れはじめた。
写真左は当時のSP盤ジャケットだ。グレン・ミラーにサッチモ、ダイナ・ショアにハンク・スノウ。デビューしたてのモンローの顔も見える。
写真右は、当時の世相を語る象徴的な品だ。音盤のように見えるが研磨盤である。SPレコードに使う鉄の針はすぐに摩耗してしまう消耗品だった。しかし、深刻な物資不足のなか、おいそれと新しい針は買えない。それでも聴きたい「ムーンライト・セレナーデ」。そこで登場したのがこの「蓄針再生盤」だった。蓄音機に乗せ、回転させて針を研ぐ。ラベルに〈廢物の針も磨けば又いきる〉とある。
人びとは貧しかった。
だが、これ以上失うものがなかった人びとには不思議な活力があった。それはハンパな希望を抱いていなかったためだろう。灰色の希望より、バラ色の絶望のほうが人をはるかに元気にするのだ。
いずれも、沖縄市戦後文化資料室所蔵。2009年9月に新装オープンされる
沖縄市「ヒストリート(仮)」に展示予定。電話 098-929-2922
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