この下駄は、私が「みいちゃんの下駄」と呼んでいるものだ。
童謡「春よ来い」からの連想である。
歌の中のみいちゃんは赤い鼻緒の「じょじょ(草履)」を履いているが、こちらは下駄。サイズが5寸(15センチ)だから歩きはじめた子どもが初めて履く「誕生履きの下駄」と思われる。あまりの愛らしさに隣町・大磯のアンテイークショップで買い求めた。
下駄のルーツをたどると、弥生時代の稲作で使われた「田下駄(たげた)」に行き着く。水を張った田んぼの深みに足をとられず作業するための農具で、これが日常の履物として転用されていまに至っているようだ。
下駄が庶民の履物として普及したのは江戸時代になってからだ。天保年間には、江戸の町の一角に下駄屋が軒を連ねる下駄新道(げたしんみち)があらわれ、新名所として当時の絵に残されている。
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江戸時代(19世紀前半)の辰巳芸者が履いた下駄【差歯高下駄(さしばたかげた)】。黒漆仕上げの台(foot plate)に白い素足を載せようという粋(いき)な仕草が描かれている。
渓斎英泉(けいさい えいせん)の浮世絵「辰巳八契(たつみやちぎり)」(部分)より
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下駄はさまざまなかたちで文学作品のなかにも登場する。
〈見るに氣の毒なるは……途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し〉
とは、明治文学の代表作・樋口一葉『たけくらべ』の一節だ。ここで切れた「鼻緒」とは、下駄の先端に差し込まれたヒモ(緒)のことで、端(ハナ=前部)の緒だから「ハナオ」。一方、下駄の台の両サイドに差し込まれた緒は「ヨコオ(横緒)」という。
後になって、ハナオとヨコオを総称して鼻緒というようになった。
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明治末期、岩手県盛岡市の写真館で一張羅を着込んでポーズをとる若い大工さん(左)と商家の丁稚くん。
ふたりの履物はいずれも下駄だが、この下駄もまた彼らの一張羅、つまり「晴れ着」であり「正装」としての履物だったのだろう。大工さんのほうは番傘を持ち、ちびた【高下駄】に爪革(つまがわ=雨よけのカバー)を装着している。丁稚くんの下駄は明治期に流行った前あご(下駄の裏の前部)が広く、前歯がほとんど中央部まで後退した【連歯下駄(台と歯が一体の下駄)】を履いている。
写真:不詳
(古道具屋で入手した生写真)
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昭和30年代──私が子どもだったころ、町内には必ず何軒かの履物屋があって、人々は年中行事や祝い事のたびに履物を新調することが多かった。花見下駄、お盆下駄、祭り下駄、お正月用のぽっくり──いろいろあった。
履物屋では鼻緒と下駄の台が別々に売られていた。私にとっては、母親に連れられて行った店先で、仕立ておろしの晴れ着に合う鼻緒と台を選ぶのが大きな楽しみだったのを憶えている。
日本人はいつからブランドを頼りに買い物をするようになったのだろう?
シャネルのスーツ、ヴィトンのバッグ、グッチのハイヒール──。
歩きはじめた女の子がこんな下駄を履いていた時代、人は履物ひとつ選ぶのにも自分の目と美意識を基準に買い物を楽しんでいたのに。
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京都の町家で見かけた【庭下駄】。前あごが無く、中央部が切り込まれて前後に太い歯。断面が「凹」の字を逆さにしたような形状だ。長距離歩行には向かないが、ちょっと突っかけて庭先を散策するためのお洒落な履物である。1907(明治40)年竣工の京都・下京区「長江家住宅」の中庭にて。
写真:Tabute Murase
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(ゆみこ・ながい・むらせ)