1970年 「火気歓迎」のデカ箱マッチ

 1970 9月~

 店の名前を「BLUES HALL  武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」とする。
店名の由来は、「空っぽ」の意味のがらんどう。

ゆみこ・ながい・むらせや村瀬春樹は当時20代。多くの全共闘世代の若者たちにとって激動のローリング'60が終焉し、気分はさみしいempty(がらんどう)。
胸のなかには空っ風が吹き抜けていたが、なんとかしなくっちゃ! というポジティブ・シンキングの芽が頭をもたげはじめていた。

 じゃ、まあ、自分たちで自前の場を用意して、わずかな種火で燃え盛るような面白いカウンターカルチャーの拠点(音楽だけではなく、あらゆるパフォーマンス発現の場)をつくろうよ……と。この時点で、店の方向性はかなりはっきりイメージ・メイクできていた。

 店内新装の手配、飲食店用の調度・機器調達のかたわら、開店案内の宣伝チラシと記念品の徳用マッチのラベルを印刷所に発注。別途、1500個の徳用マッチを仕入れ、刷毛とノリを買ってくる。ラベルが刷り上がると、アパートをオフィス代わりに、徳用マッチの1個1個にラベルを貼って仕上げる手内職の毎日だった。記念品を大型マッチにしたのは、むろん、「火薬庫」に火を点けるにはマッチが必要だったから。

「開店記念・徳用マッチ」のラベル。
デザインもレタリングも絵心がまったくない村瀬春樹が担当、満足できる出来ではなかった。

 店名のロゴや炎の絵に見るおどろおどろしい雰囲気は、愛読していた月刊漫画「ガロ」(青林堂)や当時流行の劇画の影響か?

 

1970 10月~

 吉祥寺という小さな田舎町(当時)に開く小さなカフェである。宣伝の媒体は広域をカバーする「マスコミ」ではなく、ご町内を意識する「口コミ」にしようと思った。

 内装工事が進行するぐゎらん堂の入り口(「タチバナ・ビル」というペンシル・ビルの階段登り口)に「武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂、開店迫る! 開店記念品贈呈! 刮目して待て!!」の立て看板を作成する。

 大判の模造紙に水彩絵の具で開店案内のポスターを描き、街角に貼る。自分たちも通っていた近くの銭湯「弁天湯」の脱衣場の壁(男湯と女湯の両方)にも貼らせてもらう。

1970.10.28 10:00~

「武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」、開店!

 ご町内情宣活動の王者=チンドン屋さんに依頼し、♪チンチンドンドン、♪チンドンドン──。
 朝から日没まで、スタッフ一同、交代で吉祥寺の街を練り歩き、開店案内のチラシを配る。時ならぬチンドン屋のジンタに驚いて振り返る通行人は多かったが、若者たちの姿は少なかった。当時、吉祥寺はまだ「若者の街」ではなかったのである

開店当日にチンドン屋さんといっしょに配ったチラシ。左=表、右=裏。店名の下の「SOUNDS & OBJET」とは「音楽もアートも!」の意。裏面には「狂気の迫力! 前衛ジャズバンド・新鋭ブルースバンド続々出演!」とある。

【 証言 】 シバ/三橋乙揶氏
2006年4月「AERA」増刊号(朝日新聞社)『ぐゎらん堂/音楽の街、吉祥寺から生まれた武蔵野タンポポ団』より

〈そんな秋の、ある夜のこと。(いきつけの吉祥寺「タムタム」という店で)いつものようにテーブルの片隅でウィスキーをちびちび舐めていると、女性の常連客が慌ただしくドアを開けて入って来るなり、「ちんどん屋がこんなの配ってたよ」。そのチラシを見ると、そこには「ぐゎらん堂・武蔵野火薬庫」と書いてあった。 

 数日後、タムタムではその「ぐゎらん堂」の事が話題を集めた。どうやらその店にはブラインドレモン・ジェファーソンという古いブルーズマンのレコードがあるらしい。ディランのデビューアルバムにその人の曲が入っていて、私はぜひ聞いてみたいと常々思っていたのだ。
 ある夕暮れ、私は意を決してあのビルの三階まで細い急な階段を上がり詰めた。「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」である〉

【 証言 】 亀和田武氏
2005年10月「ランティエ」(角川春樹事務所)『「フォーク」と「ロック」の伝説/伝説の人「高田渡」と村八分「チャー坊」』より

〈「ぐゎらん堂」が現在の東急デパートの先のビルにオープンしたのは、七〇年の秋だった。
 学校の通学路に面していたので、初日から通いはじめた。大きな徳用マッチに《武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂》と書かれていたような気がする。オープン記念に、客には一個ずつ、この徳用マッチが渡された。
 開店から一週間のうち、私は六日間通い、結局十個近い、物騒なラベルがついたデカ箱マッチがアパートの部屋に溜まった。温和な笑みを浮かべながら、徳用マッチを配っていたのが、後に晶文社などで著書を出す、オーナーの村瀬春樹氏だったのだろう〉


亀和田武氏が10個近く集めたという「有害無益/火気歓迎」のデカ箱マッチがこれ。素人の手になる無様なデザインにもかかわらず、このマッチ箱はなぜか大人気だった。開店以後、しばらくは店内の常備品としてテーブルの上に置かれていたが、「土産品」として持って帰る客が後を絶たなかった。