「武蔵野火薬庫★ぐゎらん堂」とは
「月に赤猫」
ぐゎらん堂のオフィシャル・マッチ箱

1971年、グラフィック・デザイナー羽良多平吉氏(当時、東京芸大の学生)によるデザイン。
1970年代を代表するパッケージデザインの傑作である。

武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」とは、1970年代、日本の若者文化のメッカとなった「伝説のライブハウス」といわれるカフェである。
 正式な店名は「BLUES HALL/武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂」という。
 所在地は東京・武蔵野市吉祥寺ぎんぎら通り13番地(俗にいう本町2-16-1)だった。

 開店から閉店までの期間は、1970年10月~1985年10月までの15年間。そのうち、開店時から約10年間の黄金期を、ゆみこ・ながい・むらせと村瀬春樹が主宰した。
 この間、500回以上のライブ・コンサー トやイベントを企画・開催し、訪れた客数は延べ50万人以上を数え、今日のニューミュージック界に大きな影響を与えた。

 ぐゎらん堂は単純な意味での「ライブハウス」ではなかった。というより、ぐゎらん堂が誕生した1970年の時点では、日本にはまだ「ライブハウス」という言葉が存在していなかった。ぐゎらん堂では、毎週水曜日にフォークやロックを中心とした生演奏が行われていたが、このイベントは「水曜コンサート( または、水曜演奏会)」と名づけられ、多くのミュージシャンたちからもその呼称で長らく親しまれてきた。

1974年2月頃のぐゎらん堂入口。右手に「水曜演奏会」のスケジュール。ドアに「鈴木翁二原画展」の案内。その上の覗き窓に、この年の5月4~5日に大阪・天王寺野音で開催された「春一番」のステッカーが貼られている。(写真/村瀬春樹)

1977年頃。ドアを開けるとじゃれあう若者たちでいっぱいだった。
左がぐゎらん堂ママのゆみこ・ながい・むらせ
(写真/撮影者不詳)

  音楽系メディアが、生演奏を聴かせる店を十把ひとからげにして「ライブハウス」と呼びはじめたのは1974年後半あたりからだったと記憶する。当時の資料を調べてみると〈ライブ・ハウスという新しい店の形態が注目されるようになったのは去年の秋頃からだと思う〉(1975年「新譜ジャーナル/ライブ・ハウス・マスター・大放談」自由国民社)とある。

 「ライブハウスってさ、ヨーロッパじゃストリップ小屋のことをいうんだぜ」と、「水曜コンサート」で唄い終わった三上寛が笑っていたのもちょうどその頃だった。

 ぐゎらん堂が目指していたのは、単なるミュージック・スポット(音楽を聴かせる店)ではなかった。開店時の宣伝ビラには、店名の下に「SOUNDS & OBJET」と大書してある。「SOUNDS」というのは、草創期の黒人ブルースから、ロック&ロール、シャンソン、日本の流行歌、サーカスのジンタまで、ジャンルを超えたあらゆる音楽を意味していた。

 ぐゎらん堂にはリクエスト用のレコード・リストが用意されていたが、たとえば、その【Mi=ミ】の項を引くと、Mick Jagger (ミック・ジャガー)、三橋美智也、Miles Davis(マイルス・デイヴィス)、美空ひばり、Mississippi John Hurt(ミシシッピ・ジョン・ハート)たちの代表的なLPがずらりと並んでいた。

 エノケンの『ダイナ』や、あきれたぼういずの『地球の上に朝がくる』のオリジナル盤も人気のあるLPだった。

1978年12月。若者たちで混み合うぐゎらん堂の入口周辺。店内に入りきれないのでグラスを手にして廊下で呑んでいる。イベントの当日や毎週土曜日にはこういう光景がよく見られた。
(写真/ぐゎらん堂芸能部長・中坊こと飯尾浩志)
 「OBJET」とは「オブジェ」。

 ダダイズムやシュールレアリズムでいう、意識下にダイレクトに届く物的メッセージのことである。たとえていうなら、1917年、マルセル・デュシャンがニューヨーク独立芸術家協会展に出品を目論んだ磁器製男性用小便器(『レディ・メイド《泉》』)であり、1963年、赤瀬川原平が模型千円札のシートで梱包したトランク(後の「千円札裁判」で警視庁に押収された)である。

 ぐゎらん堂はアートやパフォーマンスを展開する場としても位置づけられていた。毎月、店内の壁を利用して開催された「ぐゎらん堂店内展示」は、油彩、日本画、ポップアート、石膏人形、写真、漫画原画など、ジャンルを問わない多くの若きアーチストたちの作品でにぎわった。赤瀬川原平の『零円札』が、「水曜コンサート」のギャラとしてミュージシャンに支払われていた時期もあった。

 実際、ぐゎらん堂に集ったのはミュージシャンやそのファンたちだけではなかった。

 詩人、作家、画家、編集者、漫画家、写真家、映画作家、演劇人、舞踏家、落語家とその卵たちが続々と結集した。大工さん、植木屋さん、魚屋さん、畳屋さんなど市井のプロフェッショナルたちもまたたくさんやってきた。ぐゎらん堂とは、1970年代、日本のカウンターカルチャーの拠点であり、高い志をもつ若者たちのアジト(隠れ家)であり、さまざまな恋愛関係が錯綜した若衆宿(わかしゅやど)でもあった。

  そして「武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」は、当時の多くの若者たちにとって、他所をもって代えがたい、特別な思いを抱いて通い詰めた熱気あふれる居酒屋だったのである。

1993年7月号「月刊漫画/ガロ」(青林堂)の特集『70年代フォークとガロ/'70年代吉祥寺・伝説のライブハウス ぐゎらん堂の時代』より。