01-夫婦双方の親と暮らす家
1991年10月に竣工した「三世帯住宅」、2階子世帯のダイニング。ツーバイフォー工法特有の大空間を活かしたL&Dは約25畳。小壁をはさんで、左手奥の約5畳のライブラリーと右手にある8畳のオープンキッチンを合わせると合計38畳が一体化したスペースとなっている。右手奥が主寝室。窓は木製サッシのペアガラス窓、壁はペンキ仕上げ。L&Dの床はオーク・フローリング(ストリップ材の乱尺張り)、ライブラリーの床はタソスホワイトの大理石。外観はレンガタイル張りのトラディショナルな仕上げだが、インテリアはイタリア・モダーンの雰囲気にした。

(写真はいずれもTabute Murase)

◆ わが家よ、家ごと空を飛んでいけ!◆
三世帯住宅の外観(一部):乾式レンガタイル張り(外周壁は強度アップのために2×6材使用)。開口部は全館ペアガラス窓と断熱ドア。左手に三世帯共用の玄関とポーチがある


「新しい家が欲しい!」 

 目下、わたしはヒマさえあれば不動産広告に目を凝らし、これぞと思う物件には足を運んでいる。しかし、先立つものがなんとやら、最近の地価のあまりの高さにため息をつく毎日である。

 といっても、いま住んでいる家にうんざりしているわけではない。

 この家は私にとっては2棟目の家。最初に建てた家の欠点をすべてクリアすべく、今度こそ! と凝りに凝りこだわって、プランニングに2年、工事に丸1年かけ、1991年10月に完成させた「会心」のわが家だからである。

 私たちが初めて家を建てたのは1979年、春樹も私も30代前半。上の息子の飛礫(たぶて)は9歳(小学3年生)、下の不思議(はてな)は保育園児でちょうど満3歳の誕生日を完成なった新居で迎えた。まだほんとうに小さくて、彼の頭が対面式のオープンキッチンのカウンターに届かなかったのを覚えている。

 その家が当時はまだ珍しかったツーバイフォー住宅だった(私たちの場合は北米からの直輸入住宅)。急勾配の大屋根の山小屋(コテージ)風の家で、屋根に葺かれたアスファルト・シングルの色がペパーミント・グリーンだったのにちなんで「薄荷荘(はっかそう)」とネーミングした。

 なぜ、30年近くも前に、私がツーバイフォー工法(まあ、正式には「プラットフォーム・フレーム・コンストラクション」だけど)を選んだのか?

 それは、こんな理由からである。
 まず、構造が安心なこと。柱に欠き込みが入る軸組ではなく、構造用合版や補強金物を多用する壁工法なので地震や台風に強い。それに、非常にシステム化された合理的な工法なので素人にもわかりやすいし、その気になれば女性にも建てられると知ったからだ。

 そして、ツーバイフォー住宅なら、居間は8畳、食堂は6畳といったチマチマした部屋割りではなく、15畳、20畳をどーんとそっくり吹き抜けさせ、あっけらかんとした大空間が満喫できる──。
 そんなわけで、1991年に竣工したいま住むわが家もまたツーバイフォー住宅なのである。今度は、春樹の母と私の両親、それに私たち一家4人がひとつ屋根の下に暮らす「三世帯・三世代同居住宅」なのだが……。

 この家に入居して15年、気がつくとまわりの事情ががらっと変わってしまっていたりする。町が死にかけているのだ。
 商店街は「閉店街」といわれるほどさびれ、買い物も外食もままならない。白昼、人っ子一人歩いていないかつての「駅前銀座」。この町に建てたこの家は私の大のお気に入りなのに……。

 いま私が見ている夢。

 この家が、信貴山縁起絵巻の中のあの「飛び蔵」のようにビューンッと空を飛び、元気な町に着地しろ!

  (ゆみこ・ながい・むらせ)

◆ 共働きカップルは2シンク・キッチンに ◆

2シンク・キッチン:約8畳の空間に配置したコの字型システムキッチン。手前にホーロー製親子シンク、奥に1槽式ステンレスシンク。中央にガスレンジとハイカロリーバーナー

初めての家づくりで失敗したことのひとつは、キッチンの設計だった

 「薄荷荘」のキッチンは幅2900mmのL字型配列。メラミン樹脂の天板に4口ガスレンジ&オーブンとステンレス製親子シンクが1台セットされた、まあ、ごくあたりまえのキッチンである。

 失敗の原因はこの「ごくあたりまえ」という点にあった。このキッチンには、シンクが1台しかなかったのである。

 シンク1つ……が、なぜ失敗なのか?

 それは、この家を建ててわずか1年も経たないうちに、ぼくのライフスタイルが決定的に変わってしまったからだ。 

 「薄荷荘」が完成して入居したのは1979年の4月だった。そのころ、ぼくは猛烈な働き蜂だった。翌80年3月、ぼくは「主夫」になることになる。
  主夫──というのは、恐妻の尻に敷かれる哀れな亭主でもなければ、女にすがって生きるヒモのことでもない。仕事に責任を負うのと同じように、家庭にも責任を負う男のことである。

 1980年3月、そのめっぽう寒い朝、ぼくはゆみこにこういわれたのだ。

 「もう、うんざりだわ!」 

 彼女は真剣だった(後で聞いてみると、自分の異議申し立てをぼくが理解できないようなら、離婚まで考えていたという)。ゆみこはこうつづけた。

 「私は、夫や子どもたちのために下働きする一生なんてごめんだわ!」

 ガ~~ン! わかるだろ、男性諸君?

 つらつら考えてみるに、多くの男たちには人生のユメがある。それとまったく同じように、多くの女たちにも子どものころから抱いてきたユメがあるのだ。

 ところが、男たちが社会に出て自分のユメ──人によってその大きさはさまざまだろうが──を実現させているその陰で、女たちは子育て、家事、老親の介護、エトセトラに追われ、自分のユメ、自分のココロザシ、自分の人生の計画を捨てている……。

 こりゃ、マズイよね。

 義を見てせざるは勇なきなり。ここはひとつ侠気(おとこぎ)を見せなくっちゃ!

 と、ぼくは主夫=家庭責任を負う男になったというわけである、きっぱりと。

 家庭責任を果たすメインステージがキッチンであることはいうまでもない。しかも、ぼくらのような共働きカップルは仕事から帰って晩飯の支度をするとき、2人でキッチンに立って短時間で勝負するっきゃない。

 そんなわけで、新居の「三世帯住宅」のキッチンは、身長180cmのぼくが腰を痛めずに作業できる床高90cm(ガスレンジは8cm下げて82cm)。そのワークトップの両袖に2台のシンクを用意。女も男も、2人が同時に立って同時に調理ができる「2シンク・キッチン」──人呼んで「男女共同参画社会型キッチン」なのである。

(村瀬春樹)

◆ 冬暖夏涼、住まいの理想を追求!◆

 30代前半で建てた「薄荷荘」のテーマが「子育て」だったとしたら、
 40代半ばで建てた「三世帯住宅」は「親との同居」だった

 ゾーニングは1階に親世帯が2つ、2階に私たち子世帯、小屋裏3階が仕事場という構成である。
 1991年10月、私たち4人、春樹の母、そして新居の完成を首を長くして待っていた九州の私の両親も合流、家族7人の新しい生活がスタートした。
 

暖房は輻射式暖房のパネルヒーター(スウェーデン製AGA)を採用した。パネルの表面温度はナイロン・ストッキングを置いても融けない微温だが全館がじんわりほどよく暖まる

 その時の家族の年令を紹介しておこう。

 春樹の母=74歳。私の父=74歳、母=68歳。春樹=47歳、私=44歳、上の息子・飛礫=21歳、下の息子・不思議が15歳。高齢者が3人、中年2人、若者が2人という逆ピラミッドの年令構成。7人の年令を合計すると343歳、平均年令が49歳という、まるで日本の高齢社会の縮図のような家族だった。嗚呼。

 ほかに、親猫1匹、中猫2匹、生まれたての子猫が4匹……。 後期高齢期を迎える親たちに最も喜ばれたのは室内の温度環境だった。一口でいうと、冬暖かく夏涼しい住まい。

 夏季の通風性を考えて、大工さんが驚くほどたくさん窓をつけたのだが、その窓は全館ペアガラス入りの木製サッシ(ドアもすべて断熱ドア)。

ツーバイフォーという壁工法の特質を活かしリビング&ダイニングはそっくり吹き抜けにし、勾配天井には明かり取りのドーマー(屋根窓)を設置した。シーリングファンは単なる飾りではなく、サーキュレーター。五段変速・順転逆転切り返し可能な五枚羽根。ギアをトップに入れて高速運転にすると室内空気を強力に撹拌(かくはん)し、循環させる。冷暖房時にも非常に役立つすぐれものだ

 外周壁の厚さは2×4材の1・5倍の厚さがある2×6材、必然的に断熱材の厚さは140mmになる(屋根の断熱材も同厚)。

 つまり、窓がいっぱいの高気密・高断熱のツーバイフォー住宅をつくったのだ。冬には暖房を入れなくても窓ガラスごしに陽光が燦々(さんさん)と射し込み、夏には開け放った窓から涼風が通りぬけていく。

 どうしても暖冷房が必要な極寒・猛暑の時期には設備機器に活躍してもらう。暖房には輻射式の温水パネルヒーター、冷房はエアコン(冷房専用機)。

 ところで、今回も、私には新居にどうしても欲しいものがあった。頭上に広がる大きな吹き抜けである。ただし、心配なことが1つあった。天井があまり高いと、冬季、暖房を入れても足下が冷え冷えとして寒いのではないか……?

 そこで思いついたのがシーリングファンである。この天井扇、お洒落なインテリア品程度に考えられているが、じつは、高性能のサーキュレーター(循環装置)として大活躍する。

快適な温度環境をつくるのに過剰な冷暖房設備は不要だ。1階和室には、涼気満点の「簀戸(すど)」を入れ、ツーバイフォー住宅内部に京都の町家並みの「夏座敷」を実現した

 おすすめは、回転速度の切り替えと逆転が可能なタイプだ。暖房時には、低速・順回転(下へ送風)にし、暖気を循環させると、床面の温度が20℃、床上1・5mも同じ20℃、吹き抜け天井の最上部で21℃と、部屋全体がほぼ温度差なしの常春の室温となる。冷房時には、低速・逆回転(上へ送風)。冷気を上へと循環させてやる。

 こうして、私たちはツーバイフォー住宅の性能の高さを実感し、快適な生活を満喫した。 

(ゆみこ・ながい・むらせ)

◆ 星は巡り、時は流れて、家族が変わる ◆
 わずか3年のあいだに、7人家族が2人家族になるとは思わなかった……。

 1991年秋~2003年春まで。「三世帯住宅」で暮らしたその11年間が、ぼくら7人家族の黄金期だったにちがいない。

 じつは、この家は1990年代のバリアフリー住宅としてはかなり有名な施工例だった。

 新聞6紙と週刊誌の取材が相次ぎ、〈夫婦双方の親と一緒に=読売〉〈話もはずむ三世帯住宅/独立性を確保・食卓囲み交流/ナース・コールも=日経〉──と写真入りで報道された。

 ぼくらの生活は、新聞の見出しどおりの賑やかさでつづいた。子世帯と親世帯、おたがいに気を配りつつ、邪魔にならず邪魔をせず、自由で楽しい生活だった。

 ゆみこの両親は、冬場は気候温暖な湘南に建つわが家で暮らし、夏になると福岡に残した自宅へ一時的に戻り、秋にはまたわが家へ帰るという縄文人なみの気ままな「渡り鳥型定住(マルチハビテーション)」を実行していた。

 しかし、星は巡り、月日は流れ、家族は輪廻(りんね)し転生(てんしょう)する。2001年から2003年の足かけ3年のあいだに、わが家は劇的な変化に見舞われた。

「三世帯住宅」では家族7人の誕生日が盛大に開かれた。この写真は2002年2月のゆみこの誕生会。左からゆみこの父・安之助、同・母文子、ゆみこの妹・シュフナー真紀子(フランス航空の客室乗務員。この日はフライトで来日)。飛礫(たぶて=上の息子)、春樹の母・多美江、春樹、そしてゆみこ。東京で暮らす不思議(はてな=下の息子)は仕事とかちあって不在だった。拡大した家族はやがて縮小する。翌2003年4月、安之助と文子は福岡市の弟夫婦の二世帯住宅へ転居、多美江は同年7月に他界した。この夜は、親たちと誕生会を祝ういわば「最後の晩餐」となった

 まず、2人の息子たちが独立して東京に居を構えた。社会人ともなれば当然の話だ。これで、

 7人─2人=5人家族。

 ゆみこには、前々から親と同居するつもりだった弟夫婦がいたが、彼らが福岡市郊外に建築中だった二世帯住宅が完成する。ある日、「そろそろいっしょに暮らさないか?」と弟夫婦からの誘い。

 2003年4月、それもまた良きかな……と、ゆみこの父と母は弟たちの招きに応じて九州へ。2羽の渡り鳥は、今回は帰ってこないことに決めたのだ。

 5人─2人=3人家族。

 そして、同じ年の7月、ぼくの母が循環器系疾患で急逝したのである。

 3人─1人=2人家族。 

 たったの3年で、7人家族が2人家族になってしまうとは知らなかった!

 小屋裏3階建て・延床面積386.1m2(116.7坪)の「三世帯住宅」の屋根の下に残されたのは、50代後半を迎えたゆみことぼく、それに2匹の老いた猫たち。過疎化と高齢化に悩む寒村のようなイタリア・モダーンのわが家……。

 さて、どうする?

 じつは、この「三世帯住宅」は世帯ごとにLDK、浴室、トイレが完備している。世帯別の玄関もある。ガス・水道・電気のメーターも独立している。耐火性が高いツーバイフォー住宅の特性を活かして、世帯ごとに「区分登記」もしてある。

 つまり、三区画・三世帯の「マンション」に素早く変身できるのだ。

 このわが家、ビューンッ! と「飛び蔵」みたいに空を飛べないのなら、いっそ誰かに貸して、また新しい家を建てますか?

 今度は、ヒトとネコの二世帯住宅でも、ね。

(村瀬春樹)

※ このエッセイは、(社)日本ツーバイフォー建築協会機関誌「2×4」(2006 March/Vol.160)に掲載されたリレーエッセイ「ツーバイフォー住宅とわたしたち」に一部加筆したものです。