01-ニッポンの家の屋根の下には


問:「家」って何ですか?

答:わかりません。

屋根の下に「豕(いのこ*)」の居るを「家」という。

屋根の下に「女」の居るを「安らぎ」という。

屋根の下に「男」の居る字が無いように、

屋根の下にパパの居場所は無い。どうする?

*いのこ =家畜化されたイノシシ

02-家の呼び方


問:いま、ニッポンの住宅ってヘンだと思いませんか?

答:そう、すっごくヘンです。

思いっきり昔のご先祖様の家。住宅が「商品化」されていなかった時代の家はヘンじゃなかった。 5500年~4000年前の縄文人の竪穴式住居(復元/青森県・三内丸山遺跡)

写真:村瀬春樹

 
世の中にはいろいろな種類の家があって……といっても、ワラの家、木の家、レンガの家みたいな素材の話じゃない。 

 こんな家を思い浮かべてほしい。延床面積40坪、切妻屋根の2階建、白い壁の南面にバルコニーが張り出したモダンな木造住宅。

 つまり、どこにでも見かけるごく平凡な住宅である。 

 不思議なのは、ニッポンでは、このどこといって代わり映えしない家の“呼び方”が、建築を請け負った“業者”よって大きく変わってくるのである。

 一物多名。それぞれの業者の立場と思想性が正直にあらわれた似て非なる名詞があてられるのだ。動詞もまた面白い変化をする。

 例をあげよう。 

 昔ながらに工務店の大工さんが建てるのは“家”である。「同郷のよしみじゃねえか。おたくが家ェ建てんなら、安くしとくぜ」なんて使われ方をする。

 クリエイティブな建築家が創るのは“作品”だ。

 「この作品の場合は、一般界における似非日常的空間概念を捨象し、特殊界の真性螺旋状的空間秩序を創造することによって、現代の数寄屋であるところの脱近代的ポストモダーンな……」とか、建築家の方々がしゃべる言葉はなぜか分かりにくい場合が多いのだが、文字にすると漢字が多くて紙面が真っ黒になる。  

 ハウスメーカーの営業マンが売るのは“商品”だ。

 彼らは会社から営業ツールとしてさまざまなマニュアルが渡されているが、たとえば「商品知識マニュアル」なるものがあって、そこには「顧客に商品を説明するに際し、カタログ並の知識では信頼は得られない。顧客以上の商品知識をもつことが……」なんて微笑ましいことが書かれていたりする。

 ついでにいえば、不動産業者が取引するのは“物件”である。

 土地つきのマンションや建売住宅。最近多いのは、建築条件付きの分譲地だ。

 とりあえず敷地の図面だけ──とか思って電話したりすると「さすが、お目が高い! ま、ここだけの話ですが、この物件はじつはワケアリで……」なんて、白いクラウンを飛ばして、即、駆けつけてくるのはご存じのとおりだ。

 彼らはいまだにバブリーな土地本位制。その土地に建った家には“上物”なる蔑称が与えられる。 

 「まあ、上物は築25年以上ですから、評価額はゼロだと思っていただけば……」。家は敷地と切り離されて空中に浮遊し、使い捨ての消費財として遇される。

   大工さんはそれを「家」といい

   ハウスメーカーはそれを「商品」という。   

   建築家はそれを「作品」と呼ぶが   

   不動産屋の店頭では「物件」となりはてる。

 “家” “作品” “商品” “物件” ──。

 家はだんだん抽象化され、記号化され、なんだかせちがらくなる一方だ。身ぐるみ剥がされそうな気分になってくる。

 住宅にあてられた四つの異なる名詞。このそれぞれの呼び方の中に、現在のニッポンの家づくりのややこしさと貧しさの秘密が隠されているような気がしてならない。

(春)

03-ソトを向く人形たち

問:最近、住宅街を散歩していると、いつも誰かの視線を感じるのですが、
気のせいでしょうか?

答:気のせいではありません。確かに、あなたはいつも誰かに見られています。
気をつけましょう。

 

 日本の住宅の外観は、1970年代までじつに地味なものだった。

 色彩計画にしろデザインにしろ、ご近所より目立たぬようにとひたすら人目をはばかって、色を抑え、個性を殺し、見渡せば花も紅葉もなかりけり。近隣の風景に埋没するのをモットーとしているようなところがあった。

 当時の外壁の多くが素材はモルタルで、色は控えめなグレイ系や暗い褐色系だった。

 「異変」は1980年代後半からはじまった。1987年、全国の新築住宅の外壁の約7割が「白ないし白色系」となったことがわかった。次いで、 1990年代に入ると、素材の主流はモルタルからサイディングへと様変わりし、壁の色は白、黄色、ピンク、アップルグリーンといった鮮やかな色でペイント されはじめた。

東京都町田市「piroさん」のクリスマス・イルミネーション。
2005年の作品より
http://noellight.com/

 同じ頃、女性たちの間でガーデニングがブームとなった。門扉(もんぴ)に下がるブラケット(吊り花籠)、ポーチに並ぶフラワーポット、塀際を飾るプランタの寄せ植え、つる草がからむ矢来のフェンス。マイホームの外観はいよいよ華やぎを増してきた。

 注目すべきは、これらガーデニングの作品は、ふだん家の中にいるはずの作者本人には見えないという点だ。つまり、それらの園芸作品は、はっきりと他者の視線──ご近所や道行く人たちの目を意識してディスプレイされているのである。

 クリスマスともなれば、屋根の軒、壁、窓、玄関先のシンボル・ツリーに満艦飾の電飾がまばゆく点滅するではないか。ポーチにきらめくイルミネーション、窓辺を飾るデコレーション。

 人目をはばかる外観から、人目をあざむく外観へ。

 この光景は、映画『ホーム・アローン』で描かれたアメリカの住宅街のクリスマスと変わらない。日本の住宅地も、あの映画の舞台となった米国屈指の高級住宅街エバンストン(ミシガン州)並みになってきたということか。

1950年代の英国製「Pin-Up Doll(髪結い人形)」Alison Pressley『THE BEST OFTIMES/Growing up in the 1950s』MichaelO'Mara Books より作成

 そして、いま、このイルミネーション住宅と軌を一にして、日本の住文化にさらに決定的な「異変」が起きつつあるのだ。

人形の「目線」である。

 これまでも、日本ではさまざまな人形が室内に飾られてきた。たとえば、雛人形は床の間に、博多人形や市松人形はタンスの上のガラスケースに、フランス人形ならピアノの上に、とか。

 日本でメルヘンチックな出窓が流行りはじめたのは1980年代後半だったが、清里のペンションや東京近郊のハウスメーカー住宅では、出窓の窓辺にぬいぐるみのコレクションが飾られていた。

 しかし、これらの人形の飾り方にはある約束事があって──考えてみればあたりまえの話のなのだが──人形たちは、いずれもウチ(室内)側に顔を向けて置かれていた。

 どんな人形も、例外なく、室内にいる家族に視線を送り、家人と対面する構図になっていたのである。

10年ほど前までは、人形たちは壁やガラス窓にもたれるように、ウチ側に向いて飾られていた。

写真:Tabute Murase

  ところが……なのである。

 お気づきだろうか? 最近、その窓辺に飾られていた人形たちが、紅いゼラニウムの鉢の脇でくるりと背中を向け、いっせいにソト(屋外)を向きはじめているのだ。

 真新しい住宅の出窓から通りを見つめる人形たち。

 もし、住宅街を散歩するあなたが、誰かの視線を背中に感じているのだとしたら、それは青い眼をしたアンティーク・ドール、テディ・ベア、ミッ キー・マウス、それに白雪姫と七人の小人たちの視線なのである。彼らは室内にいる家人には背を向けて、街路に秋波(しゅうは)を送っているのである。

 民俗学的にいえば、人形とはその所有者の思いを宿す「形代(かたしろ=みがわり)」である。

 ソトを向く人形たち──。   

 彼らはその家の女主人のどんな思いを託されているのだろうか?

 Watche Me! 私の家はここよ!  私はここよ!

 これは、人形という疑似家族が発信している何かの合図(サイン)かもしれない。

                                        (春)

04-震度7

問:巨大地震は、けっきょく、来るのでしょうか?

答:必ず来ます。ココロして準備せよ。

 街は異形だった。
 空気は異様である。
 震度7。阪神大震災四十日目の兵庫県西宮市………。

 古い入母屋(いりもや)造りの瓦屋根がつんのめり、崩れ落ちた土壁の小山から砕けた大腿骨のように太い柱が飛び出している。真新しい菊の花束と 燃えつきた線香。大きなマンションが沈没船のように路上に傾き、木造アパートのひしゃげた窓がダイヤのエースの形で規則正しく並んでいる。デッサンが狂っ た街の上空に、抜けるような冬の青空がひろがっていた。

写真はいずれも村瀬春樹&ゆみこ・ながい・むらせ。1995年2月、
大震災直後の兵庫県西宮市その他で取材したものである

 「凶悪な巨人がやってきて、シェーカーにほうり込まれて振り回されたようだった」と被災した友人がいっていたが、その巨人の悪意が、倒壊した家屋のそこここから陽炎のように立ち昇っている。

 じつは、さっきから、不思議な感覚にとらわれている。この悪意を写し撮ろうとカメラを構えているのだがシャッターが切れないのである。納得いかないのだ。

 ファインダーの四角いフレームが切り取る光景は、例えば、シュールレアリストが描いたうそ明るい廃墟のようだ。解毒された絵空事のようである。

 ファインダーから目を離して実際の街を肉眼で見ると、悪意が異形の影となってふたたび立ちあらわれる。

 レンズの魔術はたいていの被写体を誇張してくれる。美人はより美しく、広い部屋はより広く、豪邸ならよりゴージャスに。しかし、いま、レンズは現実に追いつかない。

 いくら誇張しても誇張しきれないこの異様さは、レンズの魔術くらいでは間に合わないのかもしれない。

 通りを一本曲がると、電柱に寄りかかるようにして傾いた木造住宅の前に人だかりができていた。着膨れした老人が杖にもたれ、白髪の女性がその腕 をささえている。家族だろうか、五分刈り頭の兄とおさげの妹、アノラックを着た若い母。全員が押し黙り、目はいちようにつぶれかかった家に向けられてい た。いびつな窓辺でレースのカーテンが風にそよいでいる。

 作業服の男が合図するとパワーショベルの鉄の爪がトタン屋根をむしりはじめた。ものいわぬ一団から母親が離れ、向かいの家の瓦礫の山に登って小型カメラを取り出した。ファインダーを覗く目もとをしきりに拭っているのが見える。

 家に対する人の思いは、五月五日の柱の傷より深いにちがいない。

 

05-上座と下座

 
問:日本の住宅には「上座」と「下座」という約束事があるようですが、
どこが「上座」にあたるんですか?

答:そう、日本家屋には、昔からいくつかのヒエラルキー(序列)
がからむ概念がありました。たとえば──


 【カミ(上)】建物の正面に向かって座敷があるほうを格式が高い上手(かみて)とした。
 【シモ(下)】土間や台所があるほうを下手(しもて)とした。

 【オモテ(表)】世間に顔を向け、客を迎える正面側の空間。式台(しきだい)や玄関、座敷がそれにあたり、造作や仕上げ材にも「柾目材」など高級な素材が使われた。
 【ウラ(裏)】建物の背面側、日常の生活空間やルーティンワークを行うバックヤード=家族部屋、使用人部屋、台所、土間、納戸など。木の皮を一部残した「面皮材」など質素な素材が使われた。

 【クチ(口)】クチは「入口」の「口」。土間の入口など日常の出入り口に近いほうを指す。
 【オク(奥)】クチから上手方向、奥へと入った空間を指す。


 つまり、建物全体でいえば、【カミ】【オモテ】【オク】が「上座」にあたります。
ひとつの部屋の中での上下の関係は、次のようになります。


 まずは、小料理屋のお座敷での、毎度おなじみの光景です………。

 「さ、さ、部長、どうぞこちらへ」
 「いやぁ、そんな高いところへは」
 「ま、そういわずに、さあさあ──」

 日本人は、なぜ、床柱を背負った席を【上座】と決めたのだろう?
 ──話は16世紀にさかのぼる。 

 そのころ支配階級として台頭してきた武士の間では、畳を敷きつめた部屋をつくり、そこに床の間をもうけるという住宅スタイルが発達した。そう、武家住宅──「書院造り」である。
 武士の正装を「衣へん」に「上下」と書いて「裃(かみしも)」というが、身分の上下関係にことのほかやかましかった武家階級は、この住宅の中に厳しい【座】の序列をもちこんだ。身分の高さに比例して、その人が座るべき空間の高さが設計されたのである。

 【座】の高さとは、そこに座る人の目の高さを意味する。
 たとえば、壇の上と壇の下。もちろん、身分の高い人間が壇の上──だ。
 座らない場合もそうだった。たとえば、馬上と地べた。仁王立ちと平伏。
 人を見下ろす高い目の位置は威圧の視座であり、相手を仰ぎ見る低い目の位置は屈従の視座である。自分の目より下に座る人が「目下」であり、自分の目より上に座る人を「目上」というわけだ。

 この関係性が、武士の住宅に表現された。
 格式のある武家屋敷では、身分の高い人が座る空間を通常の床レベルより一段もち上げた「上段の間」という部屋がもうけられた。上位者はより高く、下位者はより低く。

1896(明治29)年竣工の「旧岩崎邸(東京・台東区)」の和館には、4畳敷きの「上段の間」が残されている。この奥座敷に三菱の当主をはじめ、明治期の政財界の大立て者が集い、その中の最上位の人物がこの上段の間に座したのではなかろうか。やがて、時代が下ると、一般の民家にも畳1枚分を床からもち上げた「ミニ上段の間」=床の間が普及する。

写真:Tabute Murase

 身分と【座】の関係を整理すると次のようになる。

身分
【座】
座り方
上級武士
上段の間
畳の上に座具(円座など)を敷きどっかり座る
下級武士
床座
畳の上にアグラをかく
供のもの
土座
庭先の土の上にひざまづく

 ちなみに、地面の上にじかに座るのを土座(どざ)というが、中でも、地べたに額をこすりつけてひれ伏する【座】が最下位ということになる。【土下座】である。
 駕籠(かご)に乗る人、かつぐ人、そのまた草鞋(わらじ)をつくる人……と、人の身分が厳しく制度化されていた封建社会では、そのように座る場所や座り方まで制度化されていた。

 さらに、武家社会の上位者たちは【座】が一段高いだけでは満足できなかった。ちょっとばかり背中方面が淋しかったのである。オスのクジャクのように背後になにか派手な飾り物が欲しいなあ……と。目上の【座】を権威づけるためである。
 そこで、このやんごとなき人物が座る背後の壁には、床の間、違い棚、天袋、地袋、書院などなどが賑々しくつくられるようになる。これらの造作を「座敷飾り」というが、まことに言い得て妙ではないか。

 そういうわけで、床柱を背負った座が【上座】となる。やがて、江戸時代中期以降、このスタイルは農家や商家に模倣され、近代になって一般の民家にも定着していく。

京都の商家に見る床の間(1907=明治40年竣工の「長江家住宅」2階奥の間)。左手に書院のある床の間、床柱を挟んだ右手の床脇には違い棚、天袋と本格的な「座敷飾り」が備えられている。この部屋は階下の客と顔を合わせさせたくないワケありの客との商談に使われた。

写真:Tabute Murase

 ついでにいえば、武家住宅は、その家に住む当の武士のための住まいというより、むしろ、目上の客を迎えるためのオフィシャルな場という性格が強かった。
 目上の客(巡察の役人とか上級武士)は表門を通り抜け、玄関から供を引き連れてずかずかと書院のある座敷に押し通ると床の間を背に──つまり【上座】にどっかと座る。当主は目上の客の向かい側──つまり【下座】で平伏する。
 すまじきものは宮仕え……なのである。

昭和初期、自宅の床の間を背にした【上座】に座る家父長オヤジ。こういう光景は1960年代(昭和30年代半ば)まではよく見かけたが、住宅が急速に洋風化する1970年代になると住宅内の和室が減りはじめ、床の間もしだいに消え、やがて【上座/下座】の概念自体があいまいになっていく。そして、2000年代、新築マンションでは和室=ゼロのプランも珍しくない。

写真:不詳
(古道具屋で入手した生写真)

 そして、いま、ニッポンのご家庭内からパパの居場所が消えて久しく、【上座】と【下座】はうたかたの夢、盛者必衰のことわりをあらわす。もう、パパは何だかわからない……。

 「部長、さ、さ、上座へ」
 「上座っていったって、あなた、この部屋には床の間が無いじゃない?」
 「でも、ほら、こちらの壁にはクーラーが」
 「クーラー!?」
 「風上──っていうくらいですから、ま、こっちが上座。ハッハッハ」

 座敷飾りは、けっきょく、なんでもいいようなのである。

                                       (春)

つづく >>>